ライブ・オブ・コンティンジェンシー / 不確実性の彼岸
空間演出ユニット・huez YAVAO インタビュー
[後編]

「フレームの変更」をコンセプトに、2011年にVJユニットとして結成し、その後、空間演出ユニットへと活動を拡張させ、2010年代のカルチャーシーンを駆け抜けてきたhuez。その成り立ちから、社会背景までを追ったインタビュー前編に続き、後編では、huez創設メンバー・YAVAOの思想的基盤となる「物語」および「ゲーム」というキーワードに着目し、2010年代のその先、不確実性の彼岸においての戦略を導き出したい。インタビューには、huez結成の場であり、その活動に初期から並走する「渋家」(シブハウス) オーサーの齋藤恵汰が同席している。

[前編] はこちら
構成=バグマガジン編集部

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人間を動かす「物語」システムをつくる

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YAVAO
: 自分は何がしたいんだって話をすると、人間の行動に興味があるって話になる。人のモチベーションに興味があるというか、人がなんで行動を起こすか、モチベーションを生むシステムみたいなのを、どうやってつくれるかなって考えてる。

それでゲームってかなり美しく人の行動を誘うと思っていて。いろいろ考えていた時期にホイジンガの『遊びと人間』※11 を読みはじめて。それが僕にとっては生まれて初めて、ちゃんと読んだ難しい本なので、その本のつながりで本が読めるようになっていって、自分の興味がある本をどんどん辿っていったら、宗教みたいなところに行き着きはじめたときに、宗教よりさらに、物語みたいなものが人をいちばん惹きつけるよなと思った。

それで改めて映像を捉え直すと、良いとされる映像って文章として物語はないんだけど、比較的、物語の要素があるぞって発見があった。今もたまに映像制作をやるんだけど、かなり意識的に物語を入れるようになった。VJをするときも物語的な要素を入れる意識をしてる。

VJの例えだと、最初に使った映像素材を、最後のほうでも使う。盛り上がりどこはもちろん違う素材だけど、これだけでちょっと物語性が出るんだよね。これは個人的な直感なんだけど、物語性は人を引きつけて、何かを分かりやすくすると思っている。

※11.「なぜ人間は遊ぶのか」を考察した、遊戯論の名著と呼ばれる一冊。遊びのすべてに通じる不変の性質として提示した、「競争 (アゴン)・運 (アレア)・模擬 (ミミクリ)・眩暈 (イリンクス) 」は、現在でもゲームに関する議論などにおいて、しばし参照される

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──その物語性ってのは、種類だったり定義があるの?

YAVAO : 僕のなかにあるのは、日常から非日常に行って、また日常に戻る、って構造が根幹を成している。やっぱり映像と音は、言葉多く物語れないから。できるうる物語性って、その雰囲気でしかないんだよね。雰囲気がつくる物語性をどうつくるか、みたいな感じ。

暗かったら非日常が高まるし、明るかったら日常が高まる。それはすごくシンプルで強力な効果だと思っていて、さっきVJで最初と終わりを同じにするって言ったけど、最初にあったものが、また最後にあると、戻ってきた感がある。その戻ってきた感を演出するのをすごく大切にしている。種類って言われるとちょっとよく分かんないけど、VJ的に落とし込んでる思考はあると思う。
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──照明だったりとか、VJ素材とか、その記号的な要素を、自分なりに整理して、パターンとして使って構成をつくる、ってこと?

YAVAO : うん。めっちゃそう。
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──そのときに、ホイジンガの “遊び” の考察は、参考になった部分がある?

YAVAO : 競争 (アゴン)・運 (アレア)・模擬 (ミミクリ)・眩暈 (イリンクス) っていう4つは、そんなには参考になってないかも。そもそもクラブカルチャーって、競争とか運というよりは、模擬とめまいに寄ってるから、そこの分類だな、ぐらいにしか捉えてない。それより、物語論のほうが有効に使えると思っている。
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──物語論を応用すれば、視覚的な物語論、というのが実践可能だっていうこと?

YAVAO : うん。できるできる。それを曲じゃなくてセットリスト全体に適用するとライブ演出になる。テキストベースの物語論を視覚的なものに落とし込むことができるって感覚はずっとあって、それを自分のなかでどう言語化しようかというのが、ずっと宙に浮いたまま今も実践を繰り返してる、っていう感じ。
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──さっき、光の明るい暗いって話が出たけど、それは分かりやすいよね。わりと直感的に。

YAVAO : イギリスの舞台デザイナーのエズ・デブリンのドキュメンタリーで「照明が消され、ライブの開始を待つ間って、本当に特別な時間じゃない?」ってセリフがあってそれにめっちゃ共感したんだよね。日常と非日常の間には通り道があって、ちゃんと非日常への動線、その通り道みたいなのがあるから、暗くなることでその通り道を移動していくっていうことになる。だから暗さは物語るうえでとても重要な要素だと思う。
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──例えば、VJ素材として、よく使う図像とかあるの?

YAVAO : 固まった図像はないかな。最近はアイコニックな人がいる前提でつくる演出システムのほうが多い。そのアイコニックな人の世界観から図像をとってくることがほとんど。引用でもうまくやるとそのアーティスト自身のアイコニックを超える演出ができたりする。そのアーティストのアイコン性を超えた演出は、なんだかんだ、やっぱりそのアイコニックな人がすごい感が出るから、壮大っぽくなる。レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知みたいな壮大さや物語性みたいな、そういう瞬間みたいなのが感覚的につくれるかな。

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YAVAOと、huezクルーたち

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──それはグラフィックは瞬間でしかない、っていうことかな。グラフィックというかイメージ。

YAVAO : ごめん。イメージとグラフィックがあんまりよく分かっていないけど、瞬間でしかないは合ってる。瞬間をつくるためにやってる感じがある。平田オリザ脚本、飴屋法水演出の「転校生」を「F/T」で見たとき、衝撃で見終わったあとに立てなくなって。その何がすごかったのかなって思い返したとき、自分の想像を超える瞬間があったなと。何か来る瞬間みたいな。例え全体の99%がすごい退屈でも、その瞬間さえあれば、すごく特別なものになるなって。

それは、ジェイン・マクゴニガルの『幸せな未来は「ゲーム」が創る』っていうゲームデザインの本で言っていた、エポック ※12 という言葉、エポックは非日常のピークだと解釈してる。あと、「ビートシートメソッド」っていうのが、ハリウッドの脚本術にあって、ちゃんと非日常が起きる瞬間、エポックが起きる瞬間は、高まってる何かがあるんだよね。それでちゃんと戻るみたいな。その瞬間をつくるってことは、すごく重要だと思っている。

※12. エポックメイキングのエポック。直訳すると「きっかけ」。例えば、ゲームをしていて、絶対勝てない、と思っていたときに、まさか勝てちゃった、みたいな瞬間に、思わず飛び跳ねちゃうような感覚。びっくり、に近い


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日常・非日常・日常 / 宗教と人類の歴史

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──物語論やハリウッド脚本術を、構成として使っている、ということだと思うんだけど、でも、ライブって、映画とか小説みたいに、分かりやすい物語があるわけじゃないよね?

YAVAO : あると思ってる。でもそれは、子供の頃に隣の町までおつかいに行って、ちょっと暗くなって、不安になって、でもちゃんと戻ってきて、おつかいで頼まれたもので、夜ご飯を一緒に食べるみたいなのと一緒。僕の感覚ではね。

自宅に自分の部屋があって、そこが明るい雰囲気になってて、それが突然暗くなって、ちょっと突然ラップ現象とかが起きて、またぱっと明るくなって、お母さんが大丈夫って入ってくる、っていうのも物語だと思う。
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──”やっぱり、おうちが一番” みたいな話 ※13 なのか。

YAVAO : そう。やっぱり家は日常の象徴だから。だから観客がフロアにいて、明るい状態は、お互いを認識できるから日常性が高いよね。それが暗くなった瞬間に、いるか分からないってなった状態は非日常性が高くなる。でも非日常終わりみたいな、丁寧に日常に戻してあげる作業をとっぱらちゃって、後味が悪くて残るみたいな、それをブランディングに使っている人たちもいる。

エポックをつくるための波みたいなのがあって、やっぱりピークポイントは重要になる。huezのライブ演出だとピークは、YAMAGE ※14 が担保してくれているから安心して他の波の部分を考えられる。YAMAGEはレーザーですごいクオリティが高い。エポックはクオリティがすごく高いことが重要なんだよね。

でもそのピーク前にレーザーとか見せすぎちゃうと、そのエポックの象徴さが欠けちゃうからダメなんだよね。演出として質感が違うものだとエポックに影響が出なかったりする。だから違うメディアで、同じメディアでも見せ方を変えて、保たせていって、エポックに到着するようにつくるっていうのは、すごく重要で。そこは結構僕の役目だなと思ってる。

※13.「やっぱり、おうちが一番」(There's No Place Like Home) は、『オズの魔法使い』の主人公ドロシーの物語終盤でのセリフ
※14. 2015年よりhuezに所属し、レーザーデザインおよびオペレーションを主軸に担当。「目に見える音」を表現し楽曲の世界観を拡張したレーザープログラミングと精密なオペレーションを得意とする。その職人的手法は、通称「マッシブ」と呼ばれる

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huezのレーザー演出 / 水曜日のカンパネラ 日本武道館公演~八角宇宙~, 2017年

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──日常・非日常・日常。これ以外に、物語性で大事なことって何があるの?

YAVAO : アーティストの持っている物語性。コンテクスト。やっぱり象徴が持ってるコンテクストは重要だよね。コンテクストに沿って象徴を準備する。それを使うっていうのは、その瞬間のためにとても準備しないといけないと思う。まだ自分でもあまり分かってないかもしれないけれど、この方法でちゃんと準備できたら、あまり超えられなかったことがないかもしれない。逆に、ほかのセクションとのやりとりとか、決定権とか、構成がつくれない状態が発生すると、なんか全体的には盛り上がってるんだけど、もちゃっとする感じになることもしばしばある。
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──日常・非日常・日常ってのは、なんで、そんなに効果的なの?

YAVAO : 分かりやすいからかな。物語っていうのは、肌感覚で人間が理解できるものとして機能してるからだと思う。テキストじゃない、暗い→明るい→暗い、でも表現できる日常性、非日常性が人間には分かるんだと思う。世界にある物語論を抽象化していくと、この要素は絶対に残る。人間が感じ取る物語として一番分かりやすいみたいなことだと思う。

あと物語の力として『ホモサピエンス全史』に書いてあったような、古くから宗教があって、その宗教に人が惹かれてきたっていう、人間の歴史みたいなものを参照したら説得力があるなとは思った。

キリスト教の物語がフィレンツェでも、ガンガン、絵として語られたわけだし、聖書というもののいちばん引きつけてるポイントは、神の子供が人間の世界に生まれて、それが殺されちゃったけど、キリスト教を信じている人は、天国に行けるっていうストーリーだと思う。
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──物語性のあるライブと、物語性のないライブは、どう違う?

YAVAO : 一貫してるように見える。まとまっているように見える。物語性がないと、楽曲ごとに単発で演出を見せることになるから、なんか派手だったとか、なんか見栄えは良かった、みたいな感じにはなるけど、ドラマチックが生まれないかな。ドラマチックっていう言葉、すごく直感的に使ってるから、言語化ができてないんだけど、ライブ自体の何か一本を通して見せる何か、っていうものがつくれない。それがないと、やっぱりエポックができない。印象に残らないっていう感じがある。
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──つまり、曲単発だけでは、その単発の良し悪し以外の感情の起伏がつくれないと。

YAVAO : そうね。でもhuezとやるアーティストは、そもそもアーティストのアイコン性にお客さんが強く惹きつけられていることが多い。アーティストは単に曲が良いから売れているわけじゃなくて、アーティストとしての物語がとても重要になってるから、お客さん自身もそのアーティストの物語が見たいと思っているはずなんだよね。やっぱり、いちばん惹きつける力があるのは、物語だと思っちゃうんだよな。
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──物語が最も人を惹きつけるコンテンツであると。

YAVAO : もちろん音楽に惹きつけられている人もいると思うんだけど、音楽好きな人は音楽っていう物語も好きだったりすると思っていて。なんだか一周しちゃってるけど。僕は立場としては、物語がいちばんコンテンツ力があるっていうふうに捉えているかな。
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──物語ってなんでそんなに強いのかな?

YAVAO : 信仰と同じくらいな効果があるからだと思う。何かを信じるときって、その裏で発生している事象の時系列の存在が説得力を生んでいると思う。科学信仰もやっぱり、MITとかがめっちゃ頑張ってるとか、日本だったらライゾマさんとか目立ってるとか。そういった時系列があって、やっぱ全体的な空気がつくられてる、って思う。

今、ナラティブって言葉が頭に出てきたけど、この言葉で説明できる気がしないんだよな。自分のことも、やっぱり物語的に語るというか。恋愛とかやっぱとても物語を楽しんでると思う。2人の物語をつくる。それで、お互いが主人公、が楽しい。

ゼロ年代とかにも、「コミュニティには必ず物語が発生して、そこでキャラクターが発生する」みたいに言ってた人がいたりとか、物語っていう言葉を拡大して解釈したときだけど、日常的に物語っていう機能は、かなり働いていると思っている。人間が理解しやすいっていうのが、とても強力に働いているんじゃないかな。


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今まで生きてきた人生の着地点

YAVAO (右), YAMAGE (左)

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──YAVAOは何かを信仰してるの?

YAVAO : 科学主義は入っているけれども、物語信仰なんじゃないかな。自分主義というか個人主義みたいな、経験主義みたいなところはあるかも。自分の今まで生きてきた人生の着地点として信仰しているもの、みたいなところにはなっていく。
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──物語を信仰すると、救われたりするの? 楽しいの?

YAVAO : 僕はもう、なにかしら物語を、人間は絶対信仰していると思っていて。だから宗教に近い。信仰とほぼ同義で物語って言葉を使ってる。
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──何かしらの熱狂をつくるみたいなこと?

YAVAO : 物語の肝は、多くの人の行動を操れるって言ったらあれだけど、影響を与えられるところだと思う。『ホモサピエンス全史』に書いてあった、アウストラロピテクスとネアンデルタール人が、ホモサピエンスに負けた理由は、おそらく認知革命が起きて、物語的なものがつくれて、それによって、筋力とか体格で劣っていたけど、共同することができたから勝てたみたいな。

あと、すごい古い部族とか、集団みたいなところにはアニミズム的な宗教はあっただろうと。だから集団つくるというとこには、やっぱり何かを神と崇めた状態の物語が存在している。アーティストはやっぱりそれの象徴で、そこに集まってるって前提があるから、遺伝子レベルで人間に刻まれているんじゃないかな。
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──huezは、いろんなアーティストの演出をするわけじゃない。一つの信仰をつくる、ってわけじゃなくて。信仰はいっぱいあったほうがいい?

YAVAO : 娯楽としてなったときには、あったほうがいいんじゃないかな。それはお客さんも分かっていると思う。飽きたら次に乗り換えてみたいな、インスタント宗教みたいに流行っているってことだと思う。まだ分からないうちはそれを熱狂的に信じるけど、例えば、推しメンが辞めちゃった、ってなったら、やっぱりもう信じられない、違うとこ行くとなったり。ベースとして日本の大きな物語の喪失って言われているような、そもそもの宗教というか、国境みたいなものがない状態は、日本に、日本人に大きな影響を与えているんじゃないかな。

だからアイドル文化は日本が流行っている、熱狂的だ、という話はその宗教の無さみたいなのが強く影響を与えているから、みんな欲しがっているんだと思う。逆に物語が無い状態で頑張ろうとすると鬱みたいになる人もいるんじゃないかな、と勝手に思っている。むしろ、僕が、冬鬱とかで、たまに自分の信仰やら物語を失くしちゃって、マジで辛くて死にそうになるから。そのときは全く何も本当に行動をするモチベーションがわかない。だから根本的には、こういうことに興味があって、自分が、自分で物語をつくればいいんだって至ったのが去年とか。物語への需要は日本の土壌みたいなのを反映してるんじゃないかな。

韓国でも、かなりアイドルカルチャー流行ってるし、ドイツ人の友達に聞いたけど、ドイツでも戦後で文化は断絶しちゃってると言っていたから、世界的にそうなんだろうと思う。だからアイコニックなものが登場して機能して信仰出来て、ちゃんと生きていけるんだろうし、むしろアイコニックなものに対して、過剰なまでの吸引力が発生する、っていう世の中ができあがっていると思う。
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──いろんな物語、信仰があって。気分で選べばいい、みたいな感じ?

YAVAO : 僕はそんな感じ。無いほうが辛い。無さすぎるとマジで死にたくなるから、インスタントでもあったほうがいいと思う。

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近年、huezが演出を手がけたライブステージ / tofubeats (左上), yunomi (右上), DOTAMA (左下), Maison book girl (右下)


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渋家オーサー・齋藤恵汰によるYAVAO解析

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──(インタビューに同席している、齋藤恵汰に向けて) どう思う?

齋藤 : 世の中には物語を信じている人と、信じてない人ってのがいて、物語を信じる立場ってのがあるわけじゃない。物語を信じる立場の人っていうのは、まあさまざまな物語があったほうがいいし、それによってある種の同質性が確保できる。同じ物語を知っている、っていうことによって、同質性が確保できる。それでその同質性っていうのが、人間の集団原理の基礎だから、それをつくる方がいいっていう立場の人たち、っているわけじゃん。それは実は意外と人文的な手つきで。

例えば歴史っていうのは、定義上、同じ民族による共通の物語だから、まあ例えば歴史肯定っていうことだよね。物語を肯定するって言うことは。だからある種、すごい保守的な、人文的な考え方をしているけれども、つくろうとしているのが、すごく現代的なエポックなんだ、って言うことなんだと思う。それが今の話しとしては、まあ面白い点でもあると思うし、しかし、だから不思議な部分。

つまりこう、物語をエポックにする必要はない、つまり物語はあるから、っていう立場の人が物語信仰の人には多いわけですよ。つまりすでにある物語が、何千、何万って物語はすでにあって、そのなかから歴史っていうものはあると。そのなかで残る物語と、残らない物語ってのがあって、残る物語は、必ずしもエポックなものではない。だから、色々な物語をつくってみる、っていうふうにいくっていう、わりとまあ人文的な手つきだと思うんだけど。

逆にそのエポックな物語をつくるっていうことによって、別な同質性を確保しようみたいな。まあそれこそ80年代ぐらいから流行した、ある種のなんていうか、シャレからオシャレへ的な流れだと思う。だから、こんな物語も面白いよねって、冗談で言ったら、その物語面白いみたいになって、マジになっていくっていうのは、そういうパラダイムシフトがあったわけだけど。それを完全に肯定する形で、今活動している、っていうふうに言うことはできる。そういう意味ですごくサブカルチャー的な。
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──それって、消費主義的な態度だよね、っていう批判に対して、いやむしろ消費主義的な態度で良いんだってこと?

齋藤 : いやまあ、消費主義的だっていうと、あんまり面白くないんだけど、消費主義的だって言うと、すごく左翼主義っぽくなるから。そういう話ではないと思っていて。人類のオタク化みたいな話だと思うんだよね。どっちかって言うと。

ちょっと話ずれちゃうけど、最近、Twitterでバズってたのが、あのBUMP OF CHICKENっていうのは、オタクのバンドだったと。それまでバンドっていうのはそれぞれ個性があって、その個性に対して共感する人たちが集まっていたけれども、BUMP OF CHICKENには個性がなかったと。個性がなかったことによってオタクが消費できるものになった。だから、むしろ今までの音楽にのれなかった人たちがファンについた、みたいな批評 ※15 が流れていて、それは確かに面白いなと思ったんだけど。

そういうふうに、なんていうか既存の物語にのれない人たちが増えた、っていうときに、すべての物語はオタクのもの、所有物になる、っていうことがあって、それで、そのオタクの所有物に対して、適切なエポックをつくりにいくっていうのは、まあ消費主義ではないと思うんだよね。たぶんどちらかと言うと、同質性に寄り添う、っていうことだと思う。同質性に寄り添うような演出ができるんだ、ってことだと思うから、それは既存の物語作法的なものとは一線を画する、新しい物語作法として、まあ自分の演出に活かしている、って言い方はできると思うんだよね。

※15. T.V.O.D. / 百万年書房

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──小さな物語の選択肢を増やすってこと?

齋藤 : まあ、そうね。小さな物語っていうか、大きな物語ってもともと政治の言葉だから、小さな物語っていうものが、あるのかは分からないけども、とにかく、たくさんのそのなんていうかオタク的な、同質性っていうのがあったときに、本来だったら、同質性っていうものが、民族っていうものと、結びついてるはずなんだけど、同質性と民族っていうものが結びつかない形で出てきた、ってのが、まあ大きな物語の喪失と言われる。
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──いまは、好みで同質化すると。

齋藤 : 趣味性で同質化する。

YAVAO : なんか民族っていう言葉を聞くと、アイドルってみんな自分たちのファンのことをちょっと違う呼び名で呼ぶんだよね。CY8ERだったら “サバイ族” とか。バンドじゃないもん!だったら、”もんスター” とか。民族化しようとしてるんだろうね。需要に応えてるってことなんだと思う。

齋藤 : いや、それはまあ需要に応えてる、ってことなのかもしれないけれども、同質性に寄り添える、っていうことは、たぶんすごい重要なことで、同質性に寄り添わなかった結果、うまくいかなかったものって、すごくたくさんあるはずだから、だからそう、あくまで自分たちが同質性になりたい、って言ってるんじゃなくて、同質性に寄り添う、という立場を取ってるって言うほうが、まあなんかわりと良い気はする。今、いちばん問題になっているのは、同質性に寄り添うってことなの。それはあらゆるジャンルで。
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──なんで問題になってるの?

齋藤 : それは例えば、移民の問題とか。あれとか、完全に同質性に寄り添えるかっていう問題だから。だから物語が発生する余地として、同質性に寄り添う、っていうコンセプトがあると思ってます、っていうのは、たぶんわりと現代的なアプローチだと思うから、そういうすごい抽象的な事を考えながら、でも実際現場で、その例えば、アイドルがいて、そのアイドルのファンがいて、っていうときに、この同質性は何だろう、って見極めながら演出をつくっています、っていうのは、両方とも同質性に寄り添う、っていうもので一貫している。


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“劇場型犯罪” という作家性

 

──YAVAOは、同質化が見逃されるかもしれないような要素を、物語化することで、同質化しやすくしているという話?

YAVAO : もちろんそのライブごとにコンセプトがあって、アーティストのコンセプトと、そのライブごとのコンセプトで寄り添ってはいるけど。僕は、かなり分かりやすい部分だけを使っている。それは対多数に対して伝えないといけないから。

齋藤 : そうだよね。だから集合的な無意識があって、集合的な無意識のなかで、自分が物語として演出に使えそうなものだけを拾い上げて、演出に反映させる形で、同質性があるんだということを、言いなおすための演出をつくってる、と言うことだね。だからここには同質性がありますよね、っていうふうに、みんなが共感して思えば、それはエポックになり得るから。もしかしたら、あとYAVAOは、同質性が、自分のなかにインストールできたってことが重要なのかもしれない。だから、私とあなた達は、物語を今この瞬間に共有したっていう実感がつかめると、それはなんかエポックになるんじゃないか、っていうような部分がある。
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──エポックの説明って、いまので納得できた?

YAVAO : 僕のなかでエポックは、自分が楽しいかどうか、みたいな話が最初なんだよね。自分を信じちゃってる。それは、たぶんVJ経験があるからかもしれない。僕のなかで、エポックはピークなの。物語のなかのピークをエポックにしないといけない、っていう感じ。そのピークがエポックを超えなかったら、微妙っていう感じ。

齋藤 : だからまあ、YAVAOは、次のライブもやるために演出をやってるということだね。つまりエポックっていうのは、あくまでやっぱりきっかけだから、あの演出を見たいから、もう1回人が集まってくる、っていうことが、すごくたぶん重要になってて、それは次のライブをやるっていうことじゃん。それをなんか、次のライブに人が来るような演出をやってる、っていうふうに、すごく砕いて言うなら言えると。

YAVAO : ああ、エポックできた、って瞬間って、アイコニックに勝てるんだよね。アーティストの。もちろん、そのアーティストのアイコニックを使ったエポックの瞬間もあるんだけど。そのときって、やっぱり総合的に見ての感じなんだよね。個がすごいじゃない。
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──ライブってのは、時間軸や空間軸をいじって、エポックをつくる?

齋藤 : これ、本当にそう思うんだけど、社会的エポックを使う人が多いんだよね。どうしても。社会的なエポックは、別にライブ的なエポックには、そんなにならないというか。社会的なエポックを使うと、それが社会的にはすごく面白いかもしれないけど、ライブ的には、まあなんか変り種が1個入ってたな、みたいな話に過ぎないわけで、そこでライブのエポックを目指してます、っていうふうに明確に言えるのは、すごい強みだと思うし、それは、どっちかと言うと職人肌だと思う。
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──YAVAOの言う、自分が楽しいのが重要、ってのと職人肌って、相反するような気がするんだけど。

YAVAO : それは、僕は音楽にもともと興味がない人間で、渋家に入ってから、ちゃんと音楽を聞くようになった。やっぱり思うのは、例えばフェスで雨降っていると、別にこの環境で聞きたくないなと思っちゃう。だから、僕根本的には音楽に興味がないんだ。それで、演出には興味がある。だから音楽だけだと見てて飽きちゃうんだよね。だから演出に傾倒してるっていう感じ。

齋藤 : YAVAOは、劇場型犯罪なんだよね。YAVAOの一つエピソードで、ゆずの横浜スタジアムのライブ ※16 があったときに、周りに何万人も観客がいる状態で、自分はトラスの下の空間でパソコンをいじってて、真っ暗で、ちょっと分からないながらでも、自分が仕掛けてきた、仕掛けをちゃんと起動させるために、めっちゃ頑張ったときに上がったみたいな、エピソードがあると思うんだけど。それって基本的に、その多数の観客がいて、その観客達に影響を与えるためのスイッチを自分が押せるんだ、っていうことに対する快楽性だから、それって基本的に劇場型犯罪の人のメンタリティだよね。

YAVAO : そうね。それと別で僕のなかではすごく面白いライブがあって、僕は何もしなくてもいいっていうのは、それはそれですごく良い。ただ見てるだけも良い、って思ったりもしてた。でもそのシステムは知ってないと物足りない。なにかシステムを設計して、じゃあ後はお願いと渡して見てるだけとかはぜんぜん良い。

※16. 2015年に「ゆず」の横浜スタジアムでのライブに参加。メドレー部分の演出とリミックスを手がける。また、後にライブ音源 「柚渋メドレー」 が収録された12inchレコード、ゆず×渋家「NININ SANKYAKU YUZU MEGA MIX」が発売されている

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「ゆず」の横浜スタジアムでのライブに参加。メドレー部分の演出とリミックスを手がける / ゆず弾き語りライブ2015 二人参客, 2015年

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──YAVAOの作家性をまとめると、どういうことになる?

齋藤 : ある機能が、どう効果するか、っていうことを、まず自分の興味として持っていて、それを自分がコントロールしている状態でも上がるし、あるいは単に見ているだけでも、まあ面白さがあるって事だと思うけど。それが物語っていう言葉で、YAVAOのなかでは整理されていて、その物語っていうものに影響を受けてエポックをつくってるから、すごい。

劇場型犯罪の人って、たぶん普段から、すごくニュースとか見まくってるはずで、こういうニュースが流れるってことは、こういう犯罪をしたら話題になるに違いない、あるいは、こうやったら話題がつくれるっていうことを、分かっててやらないと、劇場型犯罪にならないんだよね。だからその意味で言うと、SNSっていうのでファンの反応っていうのが可視化された状態になったから、それによって劇場が二重構造になった。生の声っていうのが、SNSに上がって見られるようになったから、劇場型犯罪的なエポックのつくり方ができるような、ライブ演出ってものをすることができるようになった、ってのは言えるかもしれない。ある種のフィードバックループというか。

意外と実は、そこの部分に着目して演出をしている人ってのは少ないだろう、ってことは言える。だからライブの概念を拡張する、って言うのは良いと思うけど、まあライブがなければ、エポックはないんですよ。重要な問題として。だから噛み砕いた言い方をすれば、なんかピンチはチャンス的な話だけど、ピンチっていうのが起きないとストーリーがないから、エポックは起きないから、チャンスもないみたいな。あらゆる外部は確実ではないと。

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YAVAO / 小池将樹

VJ・LJ・ステージエンジニア。「身体的感覚の混乱」をキーワードに、デジタルデバイスやゲームシステムの企画・制作をおこなう。2011年にhuezを立ち上げた人物でもあり、現在は、huezのライブ演出の中心人物として、レーザーやLEDなど特殊照明のプランニングを担当している。 
https://twitter.com/EX_YAVAO
huez (ヒューズ) 

2011年結成。アート、演劇、工学、映像、身体表現、デザインなど、様々なバックグラウンドをもつメンバーからなるアーティストユニット。「フレームの変更」をコンセプトに、レーザーやLEDなどの特殊照明によるライブ演出から、МVやガジェットの制作まで、アーティストやオーガナイザーと同じ目線に立ち、その世界観や物語を重視する領域横断的な演出を強みとする。
https://shibucity.com/