巌農記 第六幕「自然と人工」

著:荒渡巌

 


寒い。布団からは出られないし、文体も自然とライトな感じになってしまう。寒さが何よりも苦手なので天気予報の気温欄や各種締切からは目を背け続けているが、ドカ雪から一夜明けた国道をノーマルタイヤでビクビクしながら走った3月と全く同じ服装に戻ってしまった。思いの外夏野菜は奮闘するもので、潰されずに残っているナスやトマトの樹は実をつけようと躍起になっている。さつまいも、キャベツ、大根、小カブなど、秋の作型で播種したものも順調に収穫が進んでいる。

長いように思えた研修も残すところ一ヶ月とちょっと。美術家としてリスタートを切ることになるであろう帰京後の振る舞い方について、ボヤボヤと思案する今日このごろ。未来について思いを馳せるべき場面で、しばしば追憶の檻に囚われている。

美術の教養も、制作のスタイルも全く身についていない美大生であった時分。その第二学年のことである。私たち学生は一つのテーマを与えられた。「自然と人工」。その漠然としたテーマを踏まえて、物体や、音、写真、映像、印刷物など、それぞれの媒体を用いて制作物を展示せよ、という年間カリキュラムであった。当時コンピュータやインターネットという最先端民用科学技術に心酔しきっていた私は、自然がなんだ、我(オレ)は原子力の申し子ぞ、的な意識でオラオラになっており、「教養の涵養」などと嘯いてアニメや美少女ゲーム、Tumblrでの画像収集などに耽溺する自堕落な毎日を送っていた。けい○ん!!の最終回では当然泣いた。今思えば「自然と人工」という深遠なテーマのストライクゾーンぎりぎりのラインを攻めていたつもりではあるが、全投球が死球だった気もするし、数多くの愚行奇行もまた芋づる式に想念されてしまうのであまり積極的には思い出したくはない時分の記憶ではある。

紆余曲折、すったもんだ、特定異性との関係性において生じる心理的危機などを経て、今では環境負荷や持続可能性を憂慮するその辺のエコ男みたいな状態に陥りつつあるが、「自然と人工」というテーマを与えられて何か言えるかというと難しいよなぁと思う。

そもそも「自然」と「人工」って別に対概念でもないし、「自然」という言葉の持つ定義の曖昧さはエコ男としての意識が高まる過程で否が応でも顕在化してゆく。

基本的に人間が独力で物質を生み出すということは厳しいことで、今鍵盤をポチポチ叩いて活字を表示させている米Apple社謹製のパーソナルコンピュータもまた元を正すと何らかの鉱物や、その化合物に電気を走らせることで駆動している。コンセントプラグから電気を供給しているケーブルは皮膜を向けば銅であるし、外装やHDDの円盤はアルミニウムであるし、CPUなどの半導体はシリコンの結晶から作られる。ディスプレイを覆うガラスは炭酸ナトリウムから作られたソーダ石灰ガラスで出来ているのだろうし、その原料はトロナという鉱物である。キーボードやマザーボードの基盤はエポキシやら何らかの樹脂だし、やはり今をときめく天然資源、石油から生成されている。あらゆる物質の背景には地球の育んだ物質の採掘があって、その現場ではそれこそ巨大な重機と険しい山塊が拮抗する「自然」vs「人工」的なスペクタクルが繰り広げられているのだろうなと思う。写真家を直送したい。

実際、「自然農法」を標榜する農家であっても石油を用いて生成された化学肥料を使う人もいて、「石油とかもまた母なる地球由来の資源だし、ビニールハウスの中で作物育ててても自然の営みの範疇で行う農業と言えるよね?」という論旨を展開している(超訳)。「自然」と聞くと蛍や蛙が跋扈し畦草の揺れる牧歌的な田園風景を思い浮かべるだろうが、実際はアスファルトとコンクリートで覆い尽くされたアーバンシティもまた加工された自然、天然資源のパッチワークと言える。

そうした理解を前提に考えてみれば「自然と人工」は何ら対立するものではなく一続きの直線上に置かれ、「自然破壊」という言葉も溶解し「いや、形は変わってるけど自然は自然なんやで」みたいな軽薄なノリが生まれてくる。自然は我らが消費社会と共存しているのである、的な。

いや、しかし何か釈然としない。重機の駆動音が轟き、森林が伐採され禿山が連続し、鉱石を採掘し続け山塊が消滅、緑地が砂漠化、極地の氷が溶けて海面が上昇、白熊は絶滅、オゾンに穴が空き国民総黒ギャル化の一途を辿るというのは、やはり何かが損なわれているのではないのか…黒ギャル化は別に良いんですけど。

まぁ実際色々と損なわれていて、そんな中でも自分が最も損なわれるのが惜しいなぁと感じているのは人間以外の動植物と大地の中で繰り広げられている生態系、循環、円環であるとか、その中で形成される独特の景観だったり、現象だったりする。コピペの様に日本全国津々浦々にまで見られるショッピングモール×ホームセンター×ファストフード店×ファストファッション店の郊外景観コンボは嫌いではないのだけれども、それだけでは流石に物寂しい。ウミガメの吐息や、浜蟹の描いた砂絵、ヒバリの奏でる求愛の歌もまた、サイゼリヤのマグナムと同様に愛おしい。人類の存在する限り存続していてもらいたい「美的要素」である。美術館や博物館は人類が文化的生活を手放さない限り存在し続けるだろうけども、ある種の「野性」から生み出された美しさは人間が現代的な生活を享受し、拡大させてゆく限り簒奪され、収奪され、滅びゆく運命にあるのだろうし、か細い記録の中でのみ語り継がれてゆくことになる。治安の著しく悪い場所で博物館が襲撃されて収蔵品が破壊されるととても惜しい気持ちになるけども、「野性美」が、その担い手が消滅してゆくのもやはり厳しい様な思いがある。その破壊がテロリストではなく、我々現代に生きる市民の無自覚な欲望によるもの、というのもバツが悪い。野性美、人間の営みと同様に保護し積極的に保存する必要があるんではないの?というのがエコ街道を驀進している荒渡巌の率直な気持ちである。

そんなことを考えているからか、最近は前々から関心の高かった「素材」、「マテリアル」への関心が一段と高まっている。(余談ではありますが、私は仲間の美術家と共に「マテリアルショップ カタルシスの岸辺」という実験販売活動を2017年からしていて、作品に至らぬ映像素材だったり物質素材などを量り売りしたりしています。素材提供作家随時募集中。)私たちの物質生活を彩るありとあらゆる物質の原材料。それらが人間に見出される前に形成していた風景はどんなものだったのだろう。そうした風景の犠牲の上に、私たちは一体何を描いているのだろう。もし今「自然と人工」というテーマを与えられて制作させられるならば、そうした観点に軸足を置いて制作物を展開させてゆくのだろうなと思う。イカした一品になりそうではないですか?そんな展示を企画している人はぜひ私を誘ってください。バジェットやフィーは格安でもなんとかしますよ?展示場所が屋外でもなんとかします。土に親しみのあるアーティストなので。

話を故意に脱線させて自己PRを挟んでしまった。卓上の「白デカンタ大」も底をついた。土壁を思わせる壁紙に偽りの名画が掛けられている店内が虚飾の殿堂にも見えてくる。だが、自転車を40分も走らせれば刈残された稲穂に赤とんぼが群れる、リアルにむせ返るような風景が広がっている。圃場という飼いならされた自然に住まう生き物たちの野性的な振る舞い。その美。そんな風景を眺めれば貪欲な私たちと野性美の共存も夢物語ではない様にも思えてくる――と強引にポジティブな結びをひねり出してみようとするが、そんなに簡単に割り切れるものでもないですよね。結局、何かを諦めなければ失われるだけだという直感は恐らくある程度は正しい。何かが贄として差し出されなければならないのだ。ガラスを模した樹脂製グラスの底に「自然と人工」というテーマを設定したコワモテ教官の真顔が浮かぶ。


 

荒渡巌 Iwao Arawatari
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1986年東京育ち。2017年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。SNSのコミュニケーション空間やディスプレイに投影される画像がもたらす特殊な体験に傾注し、制作を行っている。サロン・ド・プランタン賞受賞。主な展示に「転生 / Transmigration 2015」Alang Alang House(ウブド)、「カオス*ラウンジpresents『怒りの日』」(いわき)などがある。若手芸術家による実験販売活動「カタルシスの岸辺」の店長でもある。2018年3月より長野県某所にて農業研修中。