巌農記 第五幕 「自足記」

荒渡巌

 


随分と肌寒い。今なんてユニクロのフリースを着ている。標高700メートルにも迫るこの地では秋の夜長に浸る余韻もなく冬支度が始まる。最盛期には2日おきに入らねば採りきれなかったトマトも今は4,5日に一回で充分だ。ただしこの時期のトマトはじっくりと熟し、ピークの時期とは比較にならないほど甘く濃厚だ。圃場の顔は人参や白菜、大根、カブなどの冬野菜に取って代わった。当たり前のことであるが、鍋物の定番の具というのはきちんと旬を踏襲していたのである。

ところで、私はどちらかと言えば自給志向が強いので、日常的に消費するものの生産過程に携われないかと考えがちなところがある。農業を学ぶ100の理由の一つがそれで、自分の肉体を構築するものもDIYしたい。とまぁ、そんな風に考えてもいた。6ヶ月の研修期間を経て、この「自給」という概念について、少なくとも食料の面においてはそれなりにイメージを持つことが出来るようになったと思う。食料の自給はどれほど現実的なものなのだろう?

飯の自給、ということで日本に生を受けた人間が真っ先に思い浮かべるのは「米」ではないだろうか。水稲の歴史というのは古くて、3000年近く時を遡る縄文時代末期の遺跡からも米粒が見つかったりしているし、少なくとも弥生時代には日本全土に広がっていたらしい。米は有史以来列島の民の生命を支えてきた基幹作物の一つである。(余談ではあるが、水田風景が日本景の典型のようにも思われてはいるものの実は日本に野生種は存在しなかった。中国の長江の下流あたりで現在の稲の祖先にあたる原種が生まれたと言われている。その種籾が海を超えて日本に入ってきたのだ。植物も人間と一緒に旅をするわけで、風景もまたそんな人間の移動や生活様式の変化を受けて変化している。)

まぁそんなこんなで今となっては日本は世界屈指の稲作スペシャリスト的な存在の国家になっていて、延々と整備されてきた土壌と灌漑システムが全国津々浦々に張り巡らされている。

そもそも水稲というのはかなりアクロバティックな技術で、普通植物をあれだけ水に沈めると酸欠状態になり、とてもじゃないが生きられない。稲は枝葉から根に酸素を供給する能力が異様に高いので、そうした特別な栽培が出来る。山や川から水を引き込み水量を調節すれば干害の影響をまともに受けなくても済むし、生産量も安定する。また水を張っていれば黴の発生も物理的に抑えられるので単一作物を栽培し続ける際に生じる連作障害も起きにくくなる。全く水稲を実践することは人類の叡智の実に優れた体験だと思う。

米を新たに始めようとすれば、まずは水田適地を探す必要がある。水口があり、かつ用水路を使う事のできる(過疎地では用水路の運営がままならず、水が流れていないことが多い)耕作放棄地を探すか、既存の農家から土地を借用する。

そういう事情で、米を自給しようとするならば生活する場所はかなり限定されてしまうのが実際ではある。

そもそも水を張るのがウルトラCならば、畑でも米を作れるのではないの?と疑問を持つ人もいるかも知れない。果たしてそうで、陸稲(おかぼ)というジャンルがあって実は畑でも米は作れる。だが、闘う雑草の量は水稲と比較にならない。また干ばつに滅法弱い。ポンプやスプリンクラーで潅水出来るのならばまだしも、成育を天の采配に委ねることになる。そして水稲に比べれば同一面積で比較して1/3程度の収量しか取れない。おまけに同じ圃場で作り続けると病気にかかるリスクが高まっていく。積極的に採用するには躊躇する選択肢である。

では水稲で自給用の米を作ると仮定しよう。そもそも我々は年間を通してどれくらい米を消費しているのだろう?独居の人間ならば米を買う頻度を考えれば何となく分かってくるとは思うのだが、現代日本人の年間の米消費量は60kg前後と言われている。これが江戸時代にまで遡ると一人あたり約150kg/年ということになるらしい。昔の人間に比べ米の消費量が少ないのは、現代食の主菜副菜の豊富さ、パンや麺類を食す機会が格段に増えたからである。

我々は現代人なので麦も作ることにして、とりあえずは米60kg。栽培にあたってどれほどの面積が必要となってくるのか。

通常の化学肥料や農薬を使った栽培技術においては、地域にもよるが概ね1,000㎡で600kg程度は期待出来る。有機栽培であれば、手間暇をかけてこの4〜8割程度の収量を想定してもらえば良いと思う。1,000㎡で600kgの収量を上げることが出来るとすれば、単純計算をするならば100㎡ちょっとで自分一人が年間に消費する米くらいは自給出来ることになる。したがって10m×10mの空間を用意すれば良い。その程度ならば水道代を考えなければ気合で水を張ることも出来るかも知れないし、特別な機械を使わずとも時間と体力、それと鍬と鎌が一本ずつあれば相当のところまでいけるだろう。

作物の収量に関してはウェブ上に地域ごとの情報が転がっている。それらを基に上記の様に計算していくと、例えば野菜類の自給を考えれば4〜500㎡程度あれば充分に一年間の野菜を(冷凍庫を駆使しながら)賄うことが出来る。加えて、1週間に1斤パンを食べる計算ならば、概ね100㎡程度の麦を作付けすれば良いだろう。また麦と大豆との輪作を組めば一年分の味噌に丁度良いくらいの量が出来る。(因みにパンに適した小麦、強力粉を日本で育てるのは困難とされているが、地域によっては適した品種が存在する。中力粉までは多くの土地で栽培可能なので、饂飩やお焼きのようなもので小麦欲を満たすということになる。)

稲を陸稲で栽培するということにすれば、畑が1,000㎡もあれば一年を通して一人分の食物くらいはなんとか生産出来そうなものである。借りるとしても莫大な賃料がかかりそうではあるが、こと農地ということになれば1,000㎡を借用するのに年間で2万円程度の出費で済む。これは特に安いということはなく、大体どこでもこの程度のものらしい。

ただこの1,000㎡を管理するのに費やす時間や初期投資、資材費を考えると、悲しいかな時給千円のアルバイトをして食材を買う方が遥かに合理的ということになる。週に3,4日の労働を厭わなければ米、麦、野菜、大豆のかなりのところまでは自給可能だろう。だがその時間を全てパート仕事にあてれば、自給に比べ数倍の量の食料を得ることが出来る。そもそも素材だけでは料理にならない。油、醤油、酒など、個人規模で生成するには困難の伴うものに関してはやはり現金や交換に頼らざるを得ないだろう。肉類や乳製品も同様である。

食一つとってみても、もはや一人の人間の能力やキャパシティを遥かに超越した様相を呈している。身の回りを見渡せば万事が万事この有様だ。確かに少ない労力で安価に物品が手に入るのは豊かなことかも知れない。ありとあらゆるものが爆発的に生み出され続けているし、金さえ払えば配達員がそれを届けてくれる。圧倒的な豊穣さ。

しかし私は結構前からそうした豊かさを仮初めで、借り物で、誰かに着せられた衣装の様に感じていた。

そう言えばこんな記憶がある。「FINAL FANTASY Ⅶ」という名作ロールプレイングゲームがあり、幼い頃の私は何かのオマケに付いてきた「全ての武具やアイテムを所有したセーブデータ」で遊んでいた。最強の状態で始められるので道中の敵は何の障害にもならず、お散歩気分でラストダンジョンまで進む。だが、そのラストダンジョンのボスがどうしても倒せなかった。何度挑戦しても返り討ちにあった。装備に頼って突き進んできたのでレベルが足りなかったのもあるが、それまで何の戦略も考えてこなかったので複雑で強力な攻撃を繰り返すボスに抗するテクニックがまるで身についていなかったのである。ボス戦の直前にセーブしてしまっていたので引き返すことも出来なかった様に記憶している。結局、そのゲームは最後までクリアせずに放棄することになってしまった。

私がこうして遠回りにも、非生産的にも思えるようなことをしているのは、かつて素通りしてしまったレベル上げを今になって必死にやっているということなのかも知れない。やり直しのきかない人生のラストダンジョン。詰まずに攻略するために、今、どこで、何が出来るのか。蛇口をひねって飲む水は「強くてニューゲーム」の味がする。


 

荒渡巌 Iwao Arawatari
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1986年東京育ち。2017年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。SNSのコミュニケーション空間やディスプレイに投影される画像がもたらす特殊な体験に傾注し、制作を行っている。サロン・ド・プランタン賞受賞。主な展示に「転生 / Transmigration 2015」Alang Alang House(ウブド)、「カオス*ラウンジpresents『怒りの日』」(いわき)などがある。若手芸術家による実験販売活動「カタルシスの岸辺」の店長でもある。2018年3月より長野県某所にて農業研修中。