TOP画像の作品=Sinethemba Twalo and Jabu Arnell – A Kind of Black: an emergent poetics of the imminent unknown, 2018, Courtesy
どうも!富田香織、もしくは☁︎です。未だに名乗り方がわかりませんが2回目の更新です。ベルリンについてから1ヶ月が経ちました。最初の一週間は時差ボケでずっとねむたかったのですが、それを乗り越えてからはかなり調子よく生きています。言語もこちらに来た当初は人々の話す言葉が一つも拾えず長い呪文のようでしたが、少しずつ聞こえる言葉の語句の句切れが見えてきました。
1 生活について
到着して最初に目についたのは太くて鮮やかなパイプでした。えらいカラフルでそこかしこにあり見かけるたびなぜ……と思い調べてみたところ、ベルリンは沼地の都市のため、建築行為をする場所では常に地下水が上がってきてしまう。このパイプはそれをなんとかしようということで工事期間だけ設置される、都市を明るく見せるため鮮やかな色の、上がってくる水を処理し続けるためのパイプだそうです。パイプは近くの運河まで続いているそう。確かにパイプと同じくらい、ベルリンではしょっちゅう工事中・開発中の場所を見かけます。
町中どこに行ってもグラフィティのない壁面がほとんどありません。扉や、たまにトラックに描かれているのも見かけます。(いいの?)先日初めて描いているさまを見たんですけど、パースとってるんですね! なんとなく一発描きのイメージがあったんですが、そりゃアタリとった方が描きやすいですよね。
気候、恒常的に湿度は低いのですが寒暖差が激しく、晴れの日は30度になる時もあれば雨の日や曇りの日は12度とかになり、カフェのテラス席でダウンを着てコーヒーを飲むすがたを見かけたりします。ダウン着てるのにテラス席? 室内で過ごしたら寒くないのでは……と思うのですが、ベルリンの冬は日照時間が極端に短かったり-20度になったりするから夏の間外に出られるうちはなるべく外に出ておくそうです。写真は夏至の日の様子。21時30分くらいまで明るくて、いろんな方向から愉快な音や楽しげな声が聞こえてきて、ずっと賑やかでした。
2 ベルリンビエンナーレ
今回はベルリンビエンナーレ2018について書きます。6月9日に始まった今回で第10回を迎えるベルリンビエンナーレ、今回のテーマは”WE DON’T NEED ANOTHER HERO”(「我々にもうひとりの指導者/主人公は必要ない」)。Tina Turnerが1985年に歌った曲のタイトルから引用されていて、 「政権交代と大規模な地政学的変移直前の状態からの移行をめざし、歴史や現状についての作品の還元的な、一貫した読みは提供せず、提供しないことが自身のいのちの存続・発展をめざす行為(自己保存行為)がもつ政治的可能性を探求する」とのこと。キュレーターのGabi Ngcoboはポストコロニアル(かつて植民地だった場所に残る諸問題にまつわる文化研究)について研究しており、ベルリンビエンナーレ史上初の南アフリカ出身者としても話題になりました。今年の会場はAkademie der Künste(ベルリン芸術アカデミー)、KW Institute for Contemporary Art(KW現代芸術センター)、ZK/U Zentrum für Künst und Urbanistik、HAU Hebbel Am Ufer(HAU2)、Volksbüne Pavillion(フォルクスビューネパビリオン)にて開催されています。全部見てきたよ〜
KW(KW Institute for Contemporary Art)、入場して3つ目の部屋、KWでおそらく一番大きな展示室のDineo Seshee Bopapeの作品。真っ赤な照明の下ながれる南アフリカでの性暴力の流行にまつわる映像や散乱した瓦礫、天井から水が漏れるような仕組みを施しバケツに貯めていく様子、様々な要素が散在する中、1番目につくのは会場前方には滑車に吊り上げられた大きな球体でした。緊張感があります。
同じくKWの、順路的に最後、最上階に展示されたSinethemba TwaloとJabu Arnellによる作品”A Kind of Black: an emergent poetics of the imminent unknown”。こちらにも吊り上げられる表現が見られました。
Akademie der KünstでのÖzlem Altınの作品。中庭に作品があって、施設の窓がマジックミラーになっているため中から作品をみることはできても外(中庭)から中の作品を見ることはできませんでした。
Volksbüne PavillionでのLas Nietas de Nonóによる作品。1部屋に複数作品が配置されており、それがめちゃめちゃ調和していました。
ZK/UでのZuleikha Chaudhariの作品。人のいた形跡と、前方には同じセットのなかで男性が喋る練習をさせられている映像が流れています。
今回のベルリンビエンナーレ、「地政学的変化」について考える作品を配置しながらも、身体性にもフォーカスしていたように感じられました。複数箇所で展示されていたLubaina Himidによる絵画作品が特にその色を濃くしていて、特にAkademie der künstでは彼女の臓器を描いた絵画が複数配置され、屋外にはÖzlem Altınの身体表層にフォーカスされた作品を配置することで鑑賞行為をしながら身体の内部をさぐっているような流れを作ったり、KW地下室ではFabiana Faleirosによる作品”Mastur Bar”が展開されることで地下、女性の性、大きな子宮の形のクッションからなんとなく胎内めぐりを見出したり、「地政学的(あるいはアイデンティティの)変移」直前の不安定さや揺らぎの中でギリギリ耐えて、なんとか均衡を保ち釣り合っている(緩やかな変化であり続ける)感覚が宙吊りのものたちという表現になっているようで、展示全体から変化する土地やそれに伴う政治的影響への思考と、それだけでなくそこで生きる人々のアイデンティティや自身の身体・自他の境界のゆらぎや不安感についても類推的に考えさせるように作られていると解釈できました。一貫した読みを提供しない/作品を還元的に読まないようにキュレーションする」ということは、おそらくそういった類推の力・展示を見る人々の想像力に大いに賭けているのかな、と思いました。
この記事を書くために、このサイトを参考にしました。
http://www.berlinbiennale.de/
http://bb9.berlinbiennale.de/de/
https://www.deutschlandfunkkultur.de/gabi-ngcobo-kuratiert-10-berlin-biennale-wir-brauchen-keine.1008.de.html?dram:article_id=419734
https://mg.co.za/article/2018-06-28-art-does-not-need-another-hero-reflections-on-the-10th-berlin-biennale
https://www.goethe.de/en/kul/bku/20908725.html
<プロフィール>
富田香織 Kaori Tomita