ヌード写真家・コムラマイの独白

わたしはヌード写真を撮っています。ここでは撮影を続ける中で思っていることを書きます。

まず、わたしがヌードを選ぶ理由は簡潔で、わたしの写真<人の身体をスクリーンとし、そこにカメラというプロジェクターを通して自分の感情を投影する>には、服の生地や縫い目、その人の自己表現がノイズとして写るからです。

 

脱いでる裸以上に裸

 

着替えや入浴、セックスを目的としない脱衣。ヌード写真を撮る前には必ず服を脱いでもらいます。今まで数多く裸体を見てきましたが、脱ぐ瞬間は撮影中より緊張します。

撮影のために脱ぐという行為は、裸以上に裸のような気がします。一糸纏わぬ姿になる数分前の姿こそ、その人の極めてプライベートな状態であり、わたしは立ち入ることができません。

その人が選び、自分の意思で自身を形づくっていた衣類が、本人の手によって剥がれ落ちていく。背後で聞こえる服の擦れる音。裸になりつつある身体が、半径数メートルで生まれている。脱ぎ始めるモデルさんに背を向けて、もしくは手元のカメラを触りながら、準備が整うのを待ちます。直視しないのはモデルさんへの配慮もありますが、この脱衣の魅力を壊したくないという気持ちも強いです。

例えば、銭湯では外では当たり前のように服を着ているけれど、脱衣所に入ればみんな自然に服を脱ぎ始めます。裸じゃない世界と裸の世界のちょうど真ん中、脱衣所。ヌード撮影ではこの中間世界が出現します。直視すれば、実は銭湯や自宅での日常的な脱衣と何も変わらないかもしれない。でもそうじゃない方が魅力的だし、そうであってほしいと願います。

などと考えながら、正直、仲の良い友達や何度も撮影させてもらった人はちょっと見ます。脱ぐ前まで普通に笑って会話していたのに、急に相手から視線を逸らす方が不自然と言った方がいいのかもしれません。そういう場合はたまに脱いでる姿も撮影します。先ほどの直視しない発言とは完全に矛盾しますが、撮ってしまいたくなる脱衣と出会う時もあります。

 

知らない人の裸/知人の裸/自分の裸

 

初めて撮る人には、撮影前に外見に関するコンプレックスと気に入っている部分、その理由を尋ねます。これまでの撮影を振り返ると、本来であれば他人に言いづらいであろう悩みや思い出も、ストレートに質問すればするほど真っ直ぐ返ってきます。時には質問以上のことを教えてくれ、撮影の方向性を決めるきっかけにも。会った時から撮影が終わるまで、顔つきや身体の特徴、話し方や仕草を一つずつ集め、記憶に追加していきます。

これは親しい知人の撮影でも同じです。撮るたびに新しい表情を発見する、知らない身体が現れる、追いついても気付けばまた別の場所へとわたしを連れて行ってくれる。だから両者の写真に決定的な差がないのかもしれません。もちろん、何度も撮らせてもらっている人としかつくれない写真はあります。例えば、モニターで一緒に確認して、率直な感想やアイデアをもらって次のカットに反映するような共同制作は、関係性が築かれていないとなかなか難しいです。

二つの理由から時々自分を撮ります。一つは、どうしても撮影したいのに周りに誰もいないから。もう一つは、勉強としてあえて自分を選ぶ。

撮ると撮られるでは、視点も負担も異なります。撮ってばかりで相手の心の変化に鈍感になることは避けたいと思っています。カメラマンはファインダーやモニターで相手をずっと確認できますが、モデルさんから見るとレンズがこちらに向いているだけ。モデルや俳優を生業としている人ではなく、自分と同じく写り慣れていない人を撮ることが多いので、撮られるプレッシャーを理解する時間は重要だと思っています。こういった不安を定期的に体験することで、撮る側の独壇場にならない現場を心がけています。

ちなみにセルフタイマーやリモートではなく、4K動画で録画することが多いです。撮影後に動画編集ソフトで画像としていくつか書き出し、あとは普段と同じように編集します。下の写真は動画からつくったセルフポートレートです。

 

性別の違い

 

異性も同性も撮影していますが、男性器を前にするとどうしても身体が強張ります。どう撮ればいいのか、そもそもどんな気持ちで見つめればいいのか…?自分にはないものなので、なぜそこにそれが生えているのか不思議で仕方ありません。触感や重さを知ることはできても、そこにある/触れられている感覚は絶対に理解できない。自分と男性器の間にぶ厚い壁が立ちはだかって、それを飛び越えることはまだ容易ではなさそうです。

最初男性のヌードを撮った時は、性器を1枚も写さずに終わりました。バストアップを多めに撮る、股間にバスタオルを置いてもらう、全身が入る構図では意図的に手で隠してもらいました。モデルさんは、全部撮ってもいいよと言ってくれたにも関わらず、わたしの方から断りました。当時はわからないものを、わからないまま撮ることに抵抗がありました。

被写体が女性でも男性でも、無意識のうちに性差を消すような写真を撮る時があります。体格に違いがあっても、性器を隠すと意外にもすんなり性の境界線が曖昧になります。女性なのか男性なのかわからない、そこが面白い。

実は性ってあまり重要なポイントではないのかもしれません。女性にしかできない、男性にぴったりな表現は存在しますが、性の消失でより印象的な1枚になることもあります。性が行方不明になると次に名前が薄れ、そこには「どこかの誰か」が写っています。

 

なぜあなたの裸は美しいのか

 

あなたの顔と身体は、あなたの両親とずっと昔の誰かが生きた結果です。裸を撮ると、過去の膨大な時間も同時に垣間見ることができます。

一枚の皮膚、骨、体毛、臍の形、傷、火傷の痕、治らない傷、増えていく皺。そのうちのどれかは誰かと似ているかもしれない。あなたにしかない部分かもしれない。あなたが意図的に修正したところもあるでしょう。撮影された身体は、ただ人の姿形を表すことに留まらず、新しい魅力に気づかせてくれます。

身体は日々老いていきます。同じ環境で同じ人を撮っても今日と明日では違って写るでしょう。傷とかニキビとか、ぽこっと出たお腹の肉とか、普段はマイナスに捉えられるもの全部ひっくるめて、完璧です。それらが目の前にいる。撮る。ヌード撮影は決してハードルの高い行為ではないのです。

裸というテーマがわたしを撮影に駆り立る、撮影という目的が人を裸にする。それを複雑に考えることもできるし、シンプルな話だとも思います。性別や年齢、見た目なんかは関係なくて、あなたは美しいです。わたしも、あの人も、まだ出会ったことのない誰かたちも。

 

プロフィール

コムラマイ|comuramai
1993年徳島県生まれ
関西学院大学文学部卒業後、株式会社博報堂プロダクツに就職
現在フリーランスのカメラマンとして活動中

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