タクヤワタナベタクヤに収まらず

写真家・タクヤワタナベタクヤ。その鮮烈な衝撃をそのまま伝えたい。ダイトカイでの展示「food」はタクヤワタナベタクヤの生誕を強く感じられた。今まさに、息が吹き込まれてすくすくと育つ、この作家性。もっと見ていたい、もっと探っていきたい。次の展示についてお話を伺った。それから、制作スタイルについて。それから、考えていることについて。どうか忘れないで。

 

偶然の出会い。

 

──まず活動についてご説明をいただけますか?

去年に行った「sty_pr(ステイピュア)」という展示よりずっと前に、まず俺はTumblrをやっていました。

2012年から5,6年くらい、誰かと出会えるんじゃないかと思っていたんだけど、あんま意味をなさなかった時期があってそれでも続けていくうちに自分の中で自信が生まれて来たので、この辺りで展示に纏めようと思い、

フルアルバムとは言わないですがミニアルバム的に「sty_pr」という展示を発表しました。そこでリアクションが貰えてそれが今年に繋がっているのかな。

 

──その展示は去年のいつだっけ?

2017年の7月とか。そのあとは3か月くらいボーっとして、燃え尽きるほど手ごたえが在った訳でもなく悶々と。そしたら12月に今回展示するNAZEさんと出会うんです。俺はもともとNAZEさんの絵が好きだし、NAZEさんが所属してるcontact Gonzoっていうコンテンポラリーダンスのチームも2日連続で見に行ったりして、フリースタイルで殴り合う感じのダンスなんだけど。その身体性に惹かれていて。

それで展示に行って初めてNAZEさんと話して、そのとき一緒にいたのが森本くんで。

 

──へー。

完全に偶然です、森本レノン君って呼んでるんだけどレノン君は絵を、俺は写真をやってて、NAZEさんが作品を見て一緒にやろうって言ってくれたときanagraのアイさんもいて「anagraでやろうよ」みたいな。

じゃあいつにするという感じで決まって。その時の話はanagraのWebにアイさんがテキストで公開してくれていて。その後には2017年の6月ぐらいに撮ってたアキのセックスについて行ったシリーズ、それをダイトカイの人とかアキから出さないの~って言われてて。理由は分からなかったけどなぜかまとめられなくて、半年も。

多分愛に関することへの思慮が足りなかったから去年は纏められなかったんだと思う。2018年になってからは愛に関することしか考えてないし、それで2月にダイトカイで「food」に纏めた。

 

ライバルは音楽

 

──先月の展示「food」はどうでした?

すげーよかった。アキがいる場所で、音も出せて自由な空間。堅苦しいとこでやりたいタイプでもないし。

作品も売れたし、インスタから辿って北海道からわざわざ俺の展示のために来た人がいたり。

 

──へぇー。

やっぱ人と話せるってのは展示をやる嬉しさに繋がる。言葉で伝えるのって野暮だけど、言葉なしで写真を受け取れる人ってそんなにいない気がする。写真って歴史も浅いし、美術的にも地位が高いわけじゃないし。

でもなんとなく写真に対する人口、プレイヤーも観客も含めて増えているのを感じてて、まだ言葉は吐いてていいかなって感じる。そのうち音楽みたいに言わなくてもみんなの好き嫌いが生まれてくると思う。本当は良い悪いなんて各々の中にしか存在しないのに、写真はまだ「良い写真」って概念が古臭いまま止まってる感覚が少し残ってる気がしてて、結構変わりつつはあるけどメインストリームでは古臭い概念にしか金が回ってないというか。

 

──そもそもメインストリームもパイは小さいので、派閥やニューウェーブが生まれにくいですよね。

「food」の展示のスタイルも前回の「sty_pr」もあまり変わらないし、次の「saiaku ni siteiku」で新しさを混ぜるかな。展示ではその時フレッシュなEPを軸にしたミニアルバムを出したい。毎回新作だけって俺のなかで理由がよく分からなくて。「food」は俺のなかでEP。

 

──コンセプト決まってましたもんね。

シングル盤。あれがフルアルバムではない。出してたzineが「yang」っていうのと「may(way)」と「food」と「sty_pr」と4冊あるんだけど、「sty_pr」だけがミニアルバムで他全部EPなんだよね。伝わってない感じはあるけど。フルアルバムを出すときにその中のものが絶対に混ざるから。フル新作は無いんじゃないかな。

 

──EPとベスト盤っていう言葉は使い易いですね。これから使っていきたい。

いい概念だよね、それから「food」のzineのときも同じ写真何度も出したりしたの。あれは多分音楽を意識してる。気持ちのいい音が1回しか鳴らないのって寂しすぎるし効果を狙って何度も出していいはずなのに、なんでトラディショナルな写真集は1回しか同じ写真が出てこないのか。それに疑問を感じていて、サビとかブレイクビーツじゃないけど、そんな感覚で。気持ちのいい写真・意味のなす写真が効果的に何度も配置されてたらもっといいのになって思う所があって。それを意識して「food」は編集しました。何度も同じ写真がループするんだよね。全部で33枚の写真なんだけど、本のボリュームとしては60ページぐらいになってる。

 

──トラックメイクのように作ったんだね。

なんとなくね。気持ちのいい写真が1回しか出てこないのは、悲しいというか可哀想というか寂しいというか。その気持ちはすごいデカかった。

 

愛と孤独と熱狂と。

 

──年明けからかな? タクヤのアウトプットが激しくなったなと感じていて、詳しく知りたいです。

「スピり」とか「悟り」に近いんだけど、俺が抱えてた問題とか家族の話とか、そういう悩みが20歳から26歳くらいまで俺の心を浸食してて、俺はそれが原因だって気づいてなかったんだけど。それらの問題の根源を友人の助けもあって意識的にクリアしていった。それをクリアしたらめちゃめちゃ生きやすくなって。家族との関係性ももともと悪くないのね。悪くないんだけどまあ良くなった。電車の中にいる奴にすら愛を振りまけるぐらいすっきりしたんだよね。それによって外の世界全てが敵だって意識から、仲間になる可能性があるという感じになって、それで人と積極的に話すようになったのかもしれない。

そしたら今回の展示だったり、この前のzineフェアだったりそういう機会を与えてくれる人に出会えまして。それで活動的に見えるのかなって思います。やる気はもともとあるけど、機会はなかったかな。それは外の世界を敵だと思ってたからなのかなと感じています。今も完全に仲間だとは思わないし、敵はめちゃくちゃ沢山いるけれど、でももしかしたら仲良くなれるんじゃないかなって知らない奴にも思える。

 

──それが写真の表現に対して関わってくることはありますか?

それがね、不思議なことに無いんだよ。

 

──そうなんですか。

写真に対する話はまったく変わってなくて。俺は初期の「yang」っていう親友が表紙のzine。人が踊ってるシーンとか、ハッピーな写真が多いzineなんだけど、その時から通じて愛と孤独を撮ってるぽい、恐らく。それはまったく解消されてないんだよね。今も埋まらない寂しさを感じるし、変わってない。

 

──愛と孤独を撮る。

愛とか孤独とかを撮りたいのかも。魂って表現してたんだけど、愛とか孤独にする関する何かを撮ってるんじゃないかという気がしている。今年は特に。まだフルアルバムを出せてないだけあって不明瞭なんだけど。愛とか孤独を撮っている感覚はある。自覚的になってきた。「yang」とか「food」とか熱狂的なシーンにいって撮ってたりしてても構図を綺麗にデザイン出来てしまう。それって一線を外の世界に対して引いていて、盛り上がってて楽しいシーンに俺もいるはずなのに、どこか俯瞰していて冷静になれてしまっている物悲しさがあって。それがたぶん自分の根源にある。ハッピーな写真を撮ってても構図だったりデザインできてしまう自分の、対象との世界との自分との距離。

なんかその、対象との距離感、すごい仲良いと思ってる関係性でもデザインできちゃう。生々しいのに一歩俯瞰している感じ。その差異、距離のギャップ。今回の「food」も熱狂というか日常的に見るシーンではない写真でだけど、けっこう冷静に構図だけを意識していいデザインできてる自分がいて、そういうところは満たされない孤独感から来るのかなって。

 

──EP盤を作るときとベスト盤を作るときで、制作スタイルって変わったりしますか?

変わらない。あとEPを作ってる意識も、ベスト盤を作っているっていう意識はなくて、常にEPは作ってるんだよね。トラックメイキングみたいに。常に、曲は作っててそれを最後にどうまとめるかでベスト盤になるだけで。

 

──制作スタイルについて

次の「saiaku ni shiteiku」で軸にする「moly heat,wooly heat」以外で、撮らせてくれって言ったことないんだよね。勝手に撮るし、勝手に撮るのも勝手に撮ってもいい関係性の中で撮るし、そこまで関係性が深められた人としか撮らない。対象の写真に対する作為とか俺の作為とかが写るのが嫌で。「sty_pr」のタイトルも「純粋であれ」だし、嘘つきたくないから。関係性に対して作為を混ぜたくなくて、だから撮らせてくれというのは無しにしてて。撮りたいと思ったら仲良くなることから始める。写真はまず置いておいて。

でもそんなに作為的に距離を詰めてる訳でもないし、撮りたいから仲良くなったのか仲良いから撮りたいのか、そのへんの順番はぐちゃぐちゃ。

撮りたいと思って仲良くなとろう思っても、人として好きじゃ無いとなれないから。写真のために仲良くなれる程おれも器用じゃないし。仲良くなれた奴との関係性とか、撮りたいと思った人ってのは自分の心になにかを与えた人だから、写真を抜きにしても仲良くなりたくて、そこがベースにあって写真を撮ってるかな。作為とか自意識とかよりも、もっとピュアなもの。魂の核みたいなものが撮りたいから。そこにデザインは入れたく無い。

次のやつだけは俺ノアさんに声かけてて、マキノアさんとエビアン君っていう2人を撮ってるんだけど、ノアさんに俺は初めてじゃないかな、声をかけたんだよね。仲良くはなかったの。俺は一方的に見てたし、向こうも写真見ててくれたみたいだけど、何がきっかけで仲良くなったのかも思い出せないんけど。先日、ロケでノアさんを撮ったんだけど、そのとき初めて長く話したのかな。そのときの撮影が最悪。本当にね、良いの1枚も無いだろって俺も思ってたし、向こうも思ってたの。でも上がって来たら凄い良い。もともと未来を撮っている意識があるから、仲良くなる未来への啓示だったのかなって思ってて。今は相談事とか世話になってるし仲良い。

 

──とても誠実なスタイルですね。

さっきの制作スタイルの話とも繋がるんだけど、俺はこれまで脳が身体を支配していると思い込んでたんだけど、それが違うと気づいて。身体が脳を支配しているんだよね。撮影するときは脳をけっこうOFFにしている。デザインとか構図だけにフォーカスして脳の容量を割いていて、それ以外のことに脳を使わないようにしていて。何を撮りたいとか、何を撮るべきとかコンセプトに関わってくることに脳のメモリを割かないようにして、身体がなんとなく撮りたいなって思った時だけ撮るようにしてる。

脳ではめちゃくちゃ良いシーンで「撮るべきだ!」って思っても、なんか怠いなって思ったら撮らないみたいな、脳が知ってることよりも身体が知っていることのほうが多いと思ってるから。

そうすると身体が取得してきた写真たちがフィルムに定着していく。脳が分からないこと、脳が学ぶべきことが自分の現像してきた写真に写ってる。写真が上がって来たときに、なぜそれが写っていて、どういった意味を持っているのか自分に対して、後から勉強していく感覚。

 

──それはけっこう衝撃ですね。

けっこうね、意外にあんだよメソッド(笑) なさそうでしょ。

 

──言ってることは分かるし、私もそう思っていますが、それを実際の撮影行動に落とし込むって難しいじゃないですか。どうしても脳が介入をせざるを得ないみたいな状況があるし、それを意識してできるのって凄いと思います。

上がって来た写真をみて分かんない? あ、これ脳で撮っちゃってるなって。構図もいいし写ってる物語もいいんだけど、なんか、なんか違うという瞬間。そしたらそれは使わなければいい。

匂いがするよね、作為の匂い。俺はあれが嫌いでそういう写真使わないようにしたくて。その匂いがしないピュアでクリーンなものを集めていくと未来になる。未来に進むべき道が現像されるというか。

たまに意識的に作為の匂いを混ぜる時もあるけど、それはその作為に意味があるときに限定してる。

 

──「未来が現像される」って面白いですね。タロットカードみたい。

未来への啓示がなにか含まれているものを美しいと思う。言語化されてないからこそ、写真だったり絵画だったり彫刻でもなんでもいいんだけど、言語化できない何かがあって、それが美しい未来を提示しているから美しい。そこに対する意味性みたいなもの、言葉で表現できるんだったら言葉でいいんだよね。でも、できない。いま概念がふわふわしていて、分からないけどたぶんこの未来めっちゃいいぞみたいのは作品に含まれているからこそ、そこを目指しているのかな。

写真で、最初にコンセプトありきみたいなのはいっぱいあんじゃん。あれはあれでいいんだけど、そういうのやり切られてるし時代的にも。新宿ストリートとか、今やっても面白くもなんともないし。なんとなくやっぱ、未来に人類はどう生きていくかみたいな。今は無い概念だけど、人間にとって重要になってくるであろう概念とか。俺の中でそういうものを目指すためにはこの手法しかないんだよね。

 

未来を現像したい

 

──そういうビジョンだったんですね。次にtwitterに上げている4枚セットの写真について、お伺いできますか?

まず、正式名称からいこうか。笑

 

──お願いします。

「4set画像dig業 a.k.a. internet found photo」。ファウンドフォトという概念があって、骨董市とかで見知らぬ写真を買ってきて作品を構成するスタイル。それのインターネット版。リチャードプリンスがインスタグラムのファウンドフォトやってたけど。俺のこの活動はデザインのトレーニング。完全にデザインの面だけ。脳のほうのベクトル、身体ではなく。身体はおれの身体が知ってるから。鍛えるのはできない。気を使うことはできるけど。

 

──タクヤさんはいい身体していますよね。概念的な意味で。

動こうという意思とか、身体性とかはすごい意識してる最近。

 

──私の中で松藤美里もいい身体カテゴリに入ってる。

めちゃ身体性高いね。

 

──スタイルがいいとかそういう意味ではなく、きちんと好奇心に全身で向かっていける人。

なんか空気に対して身体で反応できる、分かる分かる。そうだ、最初にミリと会ったのはイケイケハッピーハッピーの時で、あのあとしばらくミリに引っ張られた写真をやっていた自覚ある。でもそれも今の自分の繋がっている感じもあるし超尊敬してる。この前の展示もめちゃめちゃ良かった。

 

──バランスよく育てるのが大事ですね。

dig業は凄いためになってる。基本、新しいもの好きだから。新しいものって新しい概念を孕んでるから、学ぶところはあるんだよね。過去のことについて学ぶと歴史に対しては詳しくなるけど、新しいものを学ぶと未来に対して詳しくなるというか。

 

──あー。

そうそうそう、だから俺は新しいもの好きなんだよね。未来を向いているから。次何が来るっていう予感とか予知、予言みたいなものを孕ませたいから、常に新しいものとその匂いのためかな、dig業は。

 

──過去・現在・未来で分類するのは面白いですね。

未来を撮りたい。パーソナルな問題として孤独感は抜けないから、今それに対する未来、どう解消していくかということが世界と繋がっているから、愛とかを撮っているのかな。もともとね、おれの脳が女性的というか、愛の才能があるのは女だけなんだよ。あんま男性女性で区別するのも良くないんだけど、パーセンテージでいったら女の方が愛の才能を持っている。三島由紀夫はそれを女しか愛の才能を持ってなくて、男はそこにたどり着けないって言ってたの。現代は中性というかクィアとか新しい概念も出て来たから、男も才能のあるやつはいる。たぶん俺はそれに含まれてて、だから女は尊敬してる。愛の才能があるから。この話をステートメントにすべて書くわけにはいかないんだよ。野暮じゃん。だからこういう機会を待ってた。

 

──それは嬉しいです。

展示に来た人にはそういうこと話せるからさ、そういう意味で意味があったなって思うんだよね展示は。

 

──展示をやろうというモチベーションはどこから出て来ますか?

tumblr時代に遡るんだけど、インターネットは結局現実に勝てない。

というのは、「sty_pr」にも繋がる話で、テクノロジーがこれだけ進化してもまだマトリックスみたいに空を飛べないし、その悲しさとか怒りから「sty_pr」的に身体性に回帰したんだけど、それに繋がる話で。

インターネットでいくらやってても展示には勝てない。見てくれる人の量じゃなくて、意味性として。気持ち良さとかとして。インスタとかでブレイクする人もいるからインターネットの強さはあるんだろうしそういう感覚も、ある人にとっては重要だと思うけど俺には適用されなかった。俺は身体性の方に重きを置いているし、そういう方向に歩を進めた方が俺にとっては意味があるかなと思って展示をしている。人に会うことって俺の写真にとって意味がある。現実をどう生きるかってところが。

 

すべてが繋がっている

 

──なるほど。というところで、現実世界に戻ってまいりますけれど、3月31日から9日間にわたってanaguraでやる「saiaku ni siteiku」という展示について伺ってもいいですか?

これね「最悪にしていく」って言葉は森本くんから出て来た言葉で、どんな作品を作ってるの? ってアイさんかNAZEさんが彼に聞いたときに「絵を…最悪にしていく感じで…」みたいな。いい言葉だなってその場にいた全員が思って。展示タイトル「最悪にしていく」が一案だねって、いい案が出たら変えようってなって。

結局、これ超えなくてどれも。

この感覚って作品見たら分かると思うんだけど各々みんな大切にしていて。トラッシュ感、ゴミみたいな、社会常識から過去外れていたような概念。汚らしさとかアグリーダーティーな感じ。とかをこの3人は愛してて。

その共通点で3人をまとめるっていう概念がまずあって。フライヤーの裏にそれぞれのステートメントがあって、3人とも最悪にしていくという自分の方向性に向かってやっていく。3人で合わせるとかいうよりは、同じ展示タイトル、同じ感覚に向けて3人が作品を出す、各々の作品の集合体みたいな、感覚。だからゴミっぽくなると思うよ。

 

──そんないい言葉が早めに見つかって良かったというか、3台のラジオがそこにチューニングを合わせやすい状態になっているから。

タイトルだけ決めてそれをどう解釈していくかみたいなところで展示をしていくのかな。だから2人が何を出すのかまったく分からない。俺はそこでノアさんとエビアンの新作を中心に出します。プラス、saiaku ni shiteikuというタイトル含め、最近自分が思っている愛や孤独感への未来の方向性を含めたものを混ぜて提示していこうかな。この文章、1番上が俺で、2番目がNAZEさんで、3番目が森本くんなんだけど。写真を補足するために言葉が存在するわけじゃないから、写真が完全に言葉で表現できるんだかったらそいつは詩人に向いてるじゃん。言葉は補強、香り立たせるもの、増強装置として作用させようと思って書いた文かな。

 

──最初の展示である「イケハピ」の後に、写真から離れていたときは何を考えていた?

何を考えていたんだろう。写真はやめられなかったんだよね。ずっとやってたよ。撮ってたんだけど、小学4年生のときに親父が拾って来たポラロイドカメラのルーツとか。話しましたっけ?

 

──いえ、聞いたことないです。

小学4年生のときに、親父がポラロイドとポラロイドのフィルムを大量に拾って来て。あいつ物を拾うのが趣味というか癖で。それは俺にも遺伝してるしトラッシュ感に繋がってて。次の展示のトラッシュ感も自分にとっては父親がルーツで来てるんだけど。それがたぶん俺の写真の根源にあるから。俺、写真始めたの遅いけど身に染みてたんだよね。そのときに家に来る人を全員撮ってたの。そのポラロイドを壁に貼ってて、そこにルーツがある。

最初期はポラロイドも展示してたし、何も写ってないポラロイド。そのあとはちょうど「sty_pr」にも繋がる話なんだけど、あの時俺がやってたのってiPhoneとかで撮ってた画像をごにゃごにゃこねくり回してたんだけど、なんとなくポストインターネット感に疑問を覚えていて、なんでか分からない。身体が停まってたんだよね、やりたくないって。コバケン(小林健太)に一任しようと思って。コバケンいるし、コバケンのほうがかっこいいし、俺やってるけど、なんか違うなって身体が思った。

 

──最初の頃はスクリーンショットとか入ってましたよね。

その段階で俺はフィルムに移行した、2013だか2014頃。身体性への回帰というか「sty_pr」への先駆けた意味性があのころに芽生えてて、物理回帰、デジタルではなくフィルムっていうのは俺の中では物理性、身体性への回帰で。フィルムをどうやっていくかっていう。遊びとしてやってたんだけど、やりたいからやってただけだし、今もそうだし。カメラはめちゃくちゃ買ったね。300台ぐらい買ったんじゃないかな。

 

──そんなに。

去年けっこう売って。置き場所ないから、200台ぐらい売って。

 

──けっこうなお金になるでしょう。

それで暮らしてた(笑) 地味にお金になるし労働したくないから。買ってたカメラもジャンクだから直したり、そういうゴミみたいなものを愛していて。ゴミ好きなんだよね。ゴミじゃないし、みたいな。

 

──いい身体になってきたよね。

うん、まだまだだけど。あと、そうだ、孤独を隠せているやつと、孤独が漏れているやつがいて、世界に対してね。孤独そうに見えるやつと、まったく孤独そうに見えないやつ。隠せてしまえるやつのことについて最近理解できるようになって「こいつ孤独を隠せているな」って。

 

──へぇー。

それを写真にすごく反映しているんだよね。孤独そうにしてるやつは荒い画像でザラザラ撮っちゃう。孤独を隠せてしまうやつは綺麗に撮れる。

 

──はいはいはい。

この前の「food」の展示はちょっとパキっとしていて、いつもの俺より綺麗な感じに撮れてて。孤独を隠せてしまえるやつを撮るときにそれが出る。次の展示にもそれが少し出てて。次に撮るノアさんとエビアンが孤独を隠せているかってのは別の話として、少し綺麗に撮れたってことは何を表現しているんだろう。次のシリーズはノアさんにフォーカスが当たってるんだよね。難しいな、まだ理解してない。脳が追いついてない。身体が知ってる。このスタイルやってるとさ、写真に対してコンセプトが後から生えてくるから、コンペとかに弱い。

 

──そうですね。

どうしたらいいんだろうね。どうでもいいけど社会的な評価が得られない(笑)

 

──社会が反転するというか、時代が追いつくのを待つしかないですよね。

困ってるなー、評論家が勝手にやってくれればいいんだけど。本当はここまで自分で分析する必要ないと思う。

 

──もちろんもちろん。今現状、評論家不足の面はすごくある。そのために私はサポートできたらいいと思っています。

有難いです。あとは色々な方に展示で会えると嬉しいですね。次のアナグラの展示も、泊まり込みで毎日いるので。笑

 

 

 

<プロフィール>

タクヤワタナベタクヤ

1990年東京生まれ。建築や都市計画を学び写真へ。

exhibition
2012
[ikeike happyhappy photo new year]​@TURNER GALLERY

2017
[sty_pr]@capca

2018
[food]@daitokai
[saiakunishiteiku]@anagra

​<web> https://www.takuyawatanabetakuya.com/
<twitter> https://twitter.com/sty_pr

 

<展示情報>

2018年3月31日 – 4月8日
「saiaku ni shiteiku」at 半蔵門ANAGRA
http://www.anagra-tokyo.com/saiakunishiteiku
with NAZE,森本悠生

4月7日には、クロージングパーティが18:00より開催。
3人の作家と​親交のあるアーティストによるLiveやDj、パフォーマンス等

 

<2018年4月7日 パーティー情報>