TAV GALLERY代表・佐藤栄祐

杉並区阿佐ヶ谷にある現代美術のギャラリーTAV GALLERYを経営している佐藤栄祐さん、つい先日に25歳を迎えました。2014年の開廊時はなんと21歳。経営も何も知らなかった佐藤さんがギャラリーとして成功した秘訣とはなんだったのでしょうか。シェアハウスを2つ立ち上げ、その後ギャラリーを立ち上げてからの3年を振り返り、これからギャラリーを経営したい若者へ向けてエールを頂きました。

佐藤:
ついにアラサーを迎えてしまいました。ガキの頃はご迷惑をおかけしたんです。でも、渋家に関わったきっかけも「イケイケハッピーハッピー写真ニューイヤー」だったので。そこで中島晴矢に挨拶したのが始まり。自分で行ったそれは。もうやっぱ、渋家の動きとか、石田祐規のプロジェクトとか、ムーブメントに思うところはあるから、で、ターナーギャラリー行って、まずは晴矢さんに挨拶して、飛龍さんがタバコ吸ってて、そこから。

1. リサーチの大学時代

──中島晴矢さんとは知り合い?

じゃなかった。晴矢は僕が新地っていうシェアハウスをやってて、そのときに住んでた映画評論家のオオコダヨウヘイっていう頭のいい人がいたんだけど、その人が友達でそれをきっかけに話しに行った。

 

──2人で行ったんだ。

ううん。1人で行った。

 

──イケハピは何で知ったの?

Twitterで。全員のTwitter見てたから僕は。

 

──えっと、それは渋家の?

とか、ほとんど。

 

──ウォッチしてたんだ2012年。

2011年とかから見てるよ。齋藤恵汰とか松山孝法とか。興味持ち始めて、どんどん調べて行ってっていう。「aka (エーケーエー) 」とかいってみんなアホみたいに名乗ってたころかな。イケハピもだからすごい鮮明に覚えてる。何が展示されてて、どんな作品かって、誰かライブペインティングしていてって。真ん中に置いてあるソファーかな。死んだ目をしながら齋藤恵汰が横たわってたりとかね。で柴田寿美ちゃんの写真を見てて、すごい良かったの。友達に「この子よく見ると可愛いな」って俺が言ってたら「写真のモチーフの◯◯ちゃんはよく見なくても可愛いです」ってみたいな感じで寿美ちゃんが通り過ぎて行くみたいな感じが。すごくよかった。

 

──そうなんだ。

展示の二次会かなんかにも付いて行ったよ。そのときに小林健太とかもいた気がした。

 

──そもそも小林健太とは知り合いだよね?

知り合い……というか大学が同じだったしねぇ。でも距離感はあったかな。学部も違うし、最初は先輩だと思ってたから俺。思慮深いというか、物静かなタイプの人だったから、そんなに気があって話す感じじゃなかった。タイプもぜんぜん違うから。そのあと渋家で色々話して、「お前同い年かよ!」みたいなね。

 

──そこから渋家のメンバー入りしたのはいつだっけ?

2013年の半年間。前半だった気がする。短い期間だったかな。

 

──菅井早苗ちゃんもも◎が小林健太と佐藤栄祐にお願いして渋家にメンバー入りさせたと聞きました。

いやもう、ももに会いたいっすよ。だからそのさー、スパイラルで「ルー・ヤン展」とかもレセプションも (招待を) いただいてたんだけどさ、俺ほら出てるからアートフェアで。忙しくて、行けなかったねぇ。ちゃんもも◎は凄いよね。未だにファンだよね。いいの? こんな関係ない話ばっかりしてて (笑) もっとTAVギャラリーの話をしたほうがいいよね。

 

──ここからTAVギャラリーを始めたきっかけを聞く前に、TAVギャラリーを始める前って何してたの?

もともと18の頃から大学の1年目ぐらいのとき震災があって、アホみたいに美大入って漠然と作家みたいなのをやりたいなと思って、ものづくりしてたんだけど、3.11以降モノとかを作ってるのがバカらしくなって。吹っ切れたのか、知人たちとシェアハウスやろうぜ~みたいな。知人の親父さんが使ってない築50年の持ち物件があって、会社の手紙だけが届くような場所があって。月々ひとり2万ぐらいで使っていいよって。4LDKぐらいで。じゃあそこをカルチャースポットにしようぜというのが「新地」の始まり。

──2012年ぐらいですね。

イケハピ前に解散した気がする。1年半やってたの。常時いろんな人がいて、がっつり住んでるのは4人ぐらいだったんだけど。20人ぐらい。なぜかコミュニティを作りたいってなってて。どうせ死ぬなら好きなことしよう、みたいなノリで、ある意味反社会的な、ローカルの中で全部が完結するような小さな社会を作って行くみたいな感じで。いろんな人たちが繋がれるような場所にしたい。でも、シェアハウスとかオルタナティブスペースって言葉もぜんぜんちゃんと知らなかったし。自分のやってることに価値があると思ったんだけど、どういう価値なのかって人に説明できなかったんだよね。すごい原理主義な人とかで、俺のめんどくさい話しに付き合ってくれる人とかだったら面白がって遊びに来てくれたりしたんだけど。で、いろいろ理由があって辞めたんだけど、みんな若いから。

 

──それで「新地」が終わったんですね。

終わるらへんのころに、美術家のやつがいっぱいいたから。目指してるやつらが。で、「お前らと同じことやってるようなやつらいるよ」って言われて。「なにそれ?」っつって「渋家 (しぶハウス) 」って。そいつはすげぇ渋家アンチだったのね。おれはそいつとあんまり仲良くなくて。全然違うタイプの人で。自分で渋家のことを調べて「365日坊主」とかTwitterとかさ、ナンダコーレの番組とか見るじゃない。そんときに完璧に負けたって思ったんだよね。自分が作ったのはただの共感コミュニティだった。

 

──いやいやいやいや。

だってこんな気持ち悪いおじさん住まわせられないでしょとか。これはすごい! みたいな。で、やっぱ初めて、渋家イズムみたいな感じの話しになっちゃうけど、すごく影響はされたかな。どんどん興味を持っていって、あ、もしかして一番最初に行ったのはイケハピより前だったかもしれない。「ゲスハウス」というのに行った。山口としくにが企画してたクヌギでやった女性立ち入り禁止のイベント。

 

──ありましたね、そんなの。

ルームメイトで町田太一くんという作家さんがいるんだけど、当時一緒に住んでて、一緒に行ってみようぜって。その日、3時間ぐらいお邪魔して、お客さん俺らだけで確か。2人であとはメンバー10人みたいな。地下でプロジェクターを当てながら、あ、この内容は話しちゃいけないか。

 

──教えてくださいよ。

渋家に関連した▒▒▒▒▒▒▒▒をグラフに分けて▒▒▒▒▒してた。

 

──えー!

それに1人づつ投票してた (笑)

 

──ひー (笑) これは書けませんね。

これは書いちゃいけないし、なんかみんな裸で写真とか撮ってたでしょ。それとかも全部見せていた。別に僕はそういうとこ興味ないから覚えてないんだけど、俺がつれてったやつは全然別のアンダーグラウンドを想像してたわけよ。たとえば大麻とかさ。変なのやってんじゃないの? とかさ。そういう期待で行ってたんだけど、予想が外れたみたいでぜんぜんつまらなかったって言ってた。俺は、とにかく面白かった。

 

──むしろドラッグとかやって退廃的なほうが退屈なアングラな気はしますけどね。

退屈、退屈。だからこんなに真面目にXXとかXXを、ここまで掘り下げてやるんだって。その時はXXXXXがすごい票が高かったよね。で、XXXXXXXが低いみたいなね。俺の中では驚きだった。俺はXXXをネットで見てた人だから、もちろんXXXXXは僕の中でアイドルだったし。家がメディアだったから、そこの看板であるXXXXっていうのは理屈として合っているし。

 

──なぜそこまで感銘を受けたんですか?

僕も「家はメディアだ」っていう考え方を常に持ってたから。スペースとか空間があってコミュニティがあって。しかも齋藤恵汰の当時の言葉っていうのが、なんかこう自分が言語化できなかった部分を綺麗に言語化してくれた形として、素直に尊敬できた。

 

──「新地2」はそこからどうやって?

渋家にお誘いをもらって、そんときに、ずっと悩んでたんだよね。大学時代から彫刻ずっとやってくつもりもなくて、けどやっぱり、コミュニティ運営みたいなのは続けたいと思って。「新地」という自分が作ったコミュニティに執着があって。「またやらなきゃ」ってずっと1人で思ってたんだよね。で、渋家に参加して、いろんなとこ楽しいから首つっこんでて。渋家で行われるすべての会議に出席してさ。そんで大した能力もないのにでしゃばって、声あげてみたいなのやっちゃって。あるときTomadさんか誰かに言われたんだよね。「おまえ、本当にそれやりたいんだったら5年はかかるよ」って。5年ぐらいコミットしないとダメだよって言われて、あ、俺5年はここにはいられないや。だって自分は勉強として来てるのに、自分のコミュニティとか自分のプロジェクトを、良くしたいと思って、先輩たちの事例を学びに来てるのに。ここに位置付けちゃダメだよって。かつ、何者でもないから、悔しいから。

そのとき隙間産業を作ったら面白いんじゃないかと思って、実験的に女性を中心としたシェアスペースを作ったら面白いんじゃないかと思って。「ギークハウス」とか「平田ホスピタル」とか「ファクトリー京都」とか僕が見ていたスペースがあるのよ。そのどれも見て行くと、男性中心っぽい構造になっているというか、そんなイメージがあって。別にフェミニストってわけじゃないんだけど。変な相談事とかも聞いたりすることが多かったから、じゃあ逆に女性だけのスペースを作って回したら面白いんじゃない? みたいな好奇心で、2週間で10人か20人ぐらいから50~60万円集めて、中目黒のマンションを借りた。

新地2の様子 Photo by ShoSakaguchi

──その「新地2」とTAVギャラリーの始まりって時期的にはどれくらいずれてるんだろう?

「新地2」も1年半で解散しちゃうんだけど、解散する半年前ぐらいからやってた。

 

2. TAVギャラリーの始まり

 

──TAVギャラリーの開始がいつだっけ?

2014年の6月28日にこけら落としでした。

 

──始めたきっかけは?

ぶっちゃけ、あのビルを丸ごと使ってそれこそ渋家を更新できるような、もっとヤバい施設が最初の構想であった。あそこは家庭の持ち物件で、銀行の担保にかけられてる物件で、固定資産税だけ払っててもったいないからっていう理由で、なにかしなきゃね、って家族で議論になって。今は上のエリアがペアレンティングホームって言って、母子家庭専用のシェアハウスになってて、5世帯ぐらいのお母様と息子さんたちが住んでいるんだけど、そこの下が僕が経営するTAVギャラリーという形になったんだけど、いろんな提案をTAVギャラリーの前にしていて。

TAVギャラリーでは年間13本〜16本の展示を厳選して行なっている

──ほう。

ひとつ候補にあったのが、バンド。一階全部スタジオにして、バンドとかに貸し出して小さなパフォーマンスができるような総合ライブシェア施設か分かんないけど、いろんなバンドが使って情報共有してみたいのがあったら面白いかなとか。なぜギャラリーというのに至ったんだろうなぁ。そう、これ齋藤恵汰に言われたことを思い出したんだけど、僕が最初に話した時に、あそこを再利用しようってことだけが決まってたんだ。渋家にイベントをやってもらいたい、トランス・アーツ・トーキョーの企画も見てたし、渋家の展示を僕に作らせてくれませんか? みたいな、ギャラリストでもなんでもないのに僕はそんな話をしていたらしくて。で、もちろん齋藤恵汰は当時僕のこと相手にしてくれなくて、ダメだったんだけど、それをどういう形でやったらいいんだろう? みたいな。かつ、自分もマイノリティの人たちと出会ってきちゃったから、芸術の領域でしか展開することしかできないじゃんって。いろんな動きを見て来ちゃったし、多様性を尊重するというのは潜在的にあったから。家の中でさあらゆる知見を得ようって思ったら、嫌いな奴と関わるって行為はみんなやるじゃない。そういうのをみんなと会う前からけっこうやってたことがあったね。

 

──よく両親がギャラリーを経営することを許してくれましたね。

なぜかっていうとオーナーもやりたかったからなんだよね。

 

──どういうこと?

母のナオミさんが好きだったんだよね。カルチャーが。自分でやりたいことがいっぱいあるんだよね。

 

──そのやりたいことのひとつだったから許可が降りやすかったんですね。

許可っていうか家族で一緒にやろうって話だから。表側では俺とか西田とかがやっているブランドみたいになってるけど、あそこは佐藤家の家業のひとつ。経理もナオミさんに任せちゃってるしね。

 

──それは理屈としては分かるんだけど、ギャラリーだと収益が上がらなさそうじゃない。

そうだね。

 

──最低ラインとしては固定資産税分は稼がないといけないわけで。その決断をよくできたなというのが。

上の階から不労所得があるから。5世帯住んでるでしょ。下もテナント貸しすれば入ってくるんだけども、そこは良心的な。いろいろあったよ。僕の家庭もほら、いろいろ面倒くさいこと一杯あるからさ。

 

──なるほど。

そこからギャラリーの構想を考える旅行に行きました。京都に二週間。京大生がやっている、なんて名前のシェアハウスか忘れちゃったけど、そこに行って京大生たちと会って、TAVギャラリーのサイトを作ってくれているエンジニアで親友のやつがいるんだけど、そいつの部屋にいってサイトを作ってもらって。頼みに行った当日にはギャラリーの写真しか撮ってなくて。TAVって名前も決まってなかったし、コンセプトも決まってなくて。二択だったの。

一択目。コレクターだけのコレクションしかやらないギャラリーにする。コレクションギャラリー。いろんなコレクターっているじゃん。でもコレクターって見え隠れしてて、どういう存在か分からないし、どういう志向性があるのかも分からないし。てなかったときに、コレクターの存在を身近に感じさせる媒体としてコレクション展だけをやるギャラリー。そしたら面白いんじゃないかってのがひとつめ。

もう一つは、キュレーターが所属するギャラリー。他のギャラリーを見ててもオーナーの独断と偏見とその志向によって作品が似たような形質のものが並べられているような気がして、それがつまらないと感じていて、従来の言われているコマーシャルギャラリーと呼ばれているもの仕組みを逆にしたらどうなるんだろう試みがTAV。たとえば、従来のギャラリーだったら、アーティストを持っている。ギャラリーのブランディングっていうのは作品で図って行く。じゃあうちはアーティストじゃなくてキュレーターを持とう。で、どういうブランディングで図る? 作品ではなく企画で図ろう。自分の中ではめちゃくちゃなんだけど、もうシェアとかやってる時点でモノには興味がないんですよ。ものづくりを辞めている人間だから。僕は震災以降はモノよりも情景というか、関係性みたいなものに価値がつくっていうことを断言していたタイプなわけ。だからもともとすごい矛盾してるんだよね。ギャラリーという小売業やってんのにモノに価値は無いと思ってるみたいな。

ある意味人からすれば失礼にあたるかもしれないんだけれども、ただ僕はプロセスを逆にしているだけだから。おかしなことはしていないと思っていて、従来のギャラリーが「作品-アーティスト-ギャラリー-ギャラリスト」みたいな、作品が第一。みたいに考えて作って行く。TAVは自分の作品だってことは絶対に言わないんだけど、けれども、TAVの一番にあるのは僕の活動なんだよね。だから構造が全部逆ってことは、ギャラリストがいて、ギャラリーがあって、キュレーターがいて、アーティストがいて、作品がある。

 

──ピラミッドの中で一番下に作品があるんですね。

作品が一番下にある (笑) だから作家にとっては非常に良くない話なのかもしれない。そういう形でやってみた。だから小売業というよりかは、コンテンツビジネスに近いのかもしれない。

 

3. キュレーターなんて誰でもいい

 

──すごいしっくり来ました。

当時2013年とかに結局ビジネスをやるわけじゃない。おれはバイトぐらいしかしたことなかったし、ビジネスとかさよくわかってなかったし、甘やかされてたから。だから作品でも売るかーっと。自分が知る限りのアート関係者に話を聞いてもさ作品なんか売れるはずがないんですよ。そもそもコレクターがいない。と思っていて、ある意味不安定な状態。根拠のない自信ってやつかな。それで始めたところがあって。で、ビジネスをしようってときに当時どんなビジネスが流行っているかって、僕がたどりついたパイが「キュレーションメディア」だったんですよ。それこそDeNAですよ。

 

──うんうん。

メリーとかの。あれって、どういう風にお金が集まっているかというと、安いお金を使って素人に記事書かせて、アクセスのSEOだけしている。だからマーケティングだけに優れているじゃないですか。それを丸パクリしようって (笑) キュレーションって従来は学芸員であってさ、キュレーターっていうさアートを定義付けたりとかさ、そういう人のものじゃないですか。それがキュレーション、キュレーションとかメディアとか言われているのが、アート考える立場の人間からすると違和感があって、けどそっちがやっぱり主流となってさ、お金とかが動いているわけじゃない。じゃあそのキュレーションメディアをローカルな施設でやってみたらどうなるのか、っていう実験。

 

──はいはいはい。

だから、上妻世海とか。別にキュレーターではなかったじゃないですか。あれはただの友達なんだけど、暇だよ楽しいことしないと死んじゃうみたいな連絡をやりとりしていて、どうするの? みたいに聞いたら海外いって論文とか書き上げようと思うと。ふらふらやってた時期。やっぱ特殊なポストインターネットとかさ、特殊な業態の人とかとさ知り合って、思想として言語化できる人っていったら世海しかいなかったし、まず世海を誘うってことは絶対に決まってたんだよね。

俺が何をしてたかっていうと、インフルエンサーというか、小さなインフルエンサーをキュレーターとして定義付けるってこと。なんでもいいわけ。青木幹太でもメンヘラでも、サブカルでも音楽に精通してるやつ。もちろん美術に特化してるやつ、オルタナティブなカルチャーに精通してるやつ。たとえば西田さんだったらアンダーグランドなカルチャーとかさ。それぞれ持ってる小さなローカルなネットワークがあるわけじゃない。僕はそういうのが可視化したら面白いじゃんっていう話だったから。渋家にあるいろんなバリエーションとかあるじゃない。今は世代が変わってどうなってるか分からないけど。多様な僕らが見たことない味わったことのない文化をシェアするための媒体。それから現在あるコマーシャルギャラリーのアンチテーゼとしてのギャラリーなので、って言い切っているわけじゃないんだけど、そういう思想でやっているので。

だからこそ、学芸員とかインディペンデントキュレーターってさ、21歳だったし1人も知らない。1人からも影響を受けてないし、誰1人面白いと思ってない。まず美術なんか面白くないと思ってた。展覧会なんかほぼ行かないし。だから僕がやったのはある意味なんだろう、やっちゃいけないことをやったよね。アカデミックに頑張っている人たちからしたら、ある意味迷惑なことだったんじゃないかなって思う。インフルエンサーをキュレーターとして売りつける試みなので。別に誰でもキュレーターをやればいいじゃんみたいな、思想。

 

──TAVギャラリーという名前の由来は?

TAVは俺が決めちゃったかも。

 

──語源とかはない?

あるよ。ちょっと宗教的な意味。ヘブライ語。アルファベットのAからZがあるでしょ。そのZみたいな位置。一番最後に来る位置にターブというのがあって、そこからとってる。意味はなにかっていうと、聖書ができる前にユダヤ神秘主義思想というのがあって、数秘術にも「生命の樹」って出てくるでしょ。あの生命の木からとってるの。俺が若かったころにオカルティズムにハマったときがあって、で、僕生命数が9と22があって、ターブっていうのは22番目の数列なの。生命の樹の一番下。9番が僕。王国ってのは僕のイメージするコミュニティとか、ユートピアみたいな感じ。そして9番と10番を繋ぐコケの名前がターブ。22番のコケに位置するもの。しかもTAVって「トウキョウ・アート・ナントカ」っぽいでしょ (笑)

 

──たしかに。

ネットのSEO的、かつみんなが口に出して覚えられやすい。どんなのがいいかなって思った時にタブ。アートってのはユダヤ人が仕切ってるじゃない。ってなったときにさ、ロゴとかをみて親和性をもってもらったりとか、いつかのための布石みたいなところもあってその名前をつけた。あと日本に同じコンテクストで名前をつけているギャラリーがある。名古屋に、AIN SOPH DISPATCH (アイン ソフ ディスパッチ) っていうギャラリーで、僕がコレクションしてる荒木由香里さんっていう彫刻の作家さんがいるんだけど、その人が所属しているギャラリーもコンテクストが同じ。TAVは22を表すけど、AIN SOPHっていうのは00(ゼロゼロ)を表す。当時、ゼロゼロっていうのは唯一無二の神とか無限みたいなものを表す記号だった。とてもセンスのいいギャラリーさんです。

 

──こけら落としはどのような展示でしたか?

こけら落としは「ピクチャーパーティー2」ですね。あれは色々思い出深いよね。西田篤史さんと話し合って決めたんすよ。結局おれがやりたかったのは、やりたいことはいっぱいあって考えもあったんだけど、俺は結局さポンコツだからさ、今も全然仕事できないからさ。テキパキ自分の思想とかを具現化させるってことができなくて、そこで初期の頃はかなり西田さんにサポートしてもらった記憶があるかな。西田さんは「なぜこけら落としか」ってところで、西田さんも渋家を僕が辞めるぐらいのときに出会っていて、別に対して親しい仲じゃなくて、むしろ西田さんから嫌われていたのかな確か。けどお互い嫌いかなんかで、なんかのタイミングで一緒に話したときがあって。デニーズで5時間ぐらい話したんだよね。そのときに打ち解けるようになって、ギャラリーやることにしたんだって話しをしたときに「俺に本屋やらせろ」って言われて。街かなんかに公共の本屋さんを作るのが夢なんだと言ってて。

 

「ピクチャーパーティー2」展示風景

──西田さんは本屋を最初にやりたがってたんですね。

編集者というのも知っていたし、でもその、編集者というものがどれだけ重要なものかってあんまり理解してなくて、今になってものすごく理解しているんだけれども。で、本屋やらせろっていうんで、批評本とか揃えて、一緒にやっていくってことになったんだけど、俺が全然仕事できないから。企画書とかプレスリリースやりかたとか、西田さんが色々教えてくれて、かなり勉強になりました。そこから二人三脚でやっていくことになったんだよね。でもねやっぱり企画? 最初の2年ぐらいはもう、企画は西田さんと喧嘩しながら決めていた。お互いにタイプが全然違うから、「今これやるべき?」みたいな。俺は西田さんがやりたいって言った企画はほとんど反対だし、西田さんは俺がやりたいって言った企画は反対だし。仲間だけど他人。仲間だけど友達じゃないってのがあるから。かつ、他のキュレーターもいるでしょ。だから違う文化を尊重するってのはあって。

 

4. ギャラリー経営、その反響

 

──最初にBig bang pressで行こうと思ったのは?

まずだって面白かったもん。zineっていうのがさ、けっこうムーブメントになっていたときだったと思う。そのときにMMGGZZNN(メガジン)っていう小林健太のアウトプットとか。あとそれこそ石田祐規はね。けっこう当時の僕らからしたら、なんていうんだろうな、純粋無垢な芸術家だったんだよね。やっぱ一番最初はね、無垢でなんていうんだろう、事実的に僕らが影響を受けた作品を眺めたい、っていう欲求。かつ小林健太とは大学も同期で、自分も渋家の同期で、そういったときに人脈が無い中で、一緒に手を取ってやっていくってときは距離が近い人がよかったっていうのがある。

──本当は他にも候補があったんじゃないですか?

最初は何人か候補はあった。俺、ほとんどアーティストを知らなかったんだよね。興味がないから。とんでもないこと言ってるんだけど。アートがそんな好きなわけじゃないし、渋家が芸術作品として成立しているみたいな状況とか、影響とかにあったけど、会田誠さんとか村上隆さんとか一ミリも影響受けてないし、コンセプチュアル・アートなんて訳が分からないしっていうので。

西田さんだって別にアートの人じゃないからね。俺もただのポンコツ美大生だからさ。知らないんだよほとんど。美術史美術史って圧迫的に言われたってさ、知ったこっちゃねーバカヤローって話で。展示をやってお客さんと対話して、アーティストさんとかと話して、一個づつ調べていって。ちょっとづつ意識を2人で高めていったという感じです。西田さん面白いのが渋家にいるより、TAVギャラリーにいるほうが長いんだよ。結局楽しかったんだとは思う。急に成果が出たりするからさ。

 

──展示だと遅れてきたりするんですか?

WAVEあたりから手応え感じたね。

 

──WAVEは行きました。逆に、失礼ながらそれ以降行ってないですね。

あ、そんなか。嫌いうち?

 

──嫌いっていうか。

興味の話でしょ。それは。それはバラバラだもん。俺だって自分が興味ないことですらやってたりするからさ。

 

──そうだよね。写真関連だったら行きますけど、絵画だとやっぱり興味もつのが難しいですね。好みだと林香苗武とか好きですね。

いいよね。林さん。林さんは断られちゃってるんですよ。いいとは言ってくれたんだけど、やろうってなったんだけど、デカい絵を描きたいっつって。TAVの天井高じゃ足りなかった。残念だった。林さんは良い作家だと思う。

 

──4年やってどうでした?

自分の活動の中で、美術手帖さんには「オルタナティブな場を作る。佐藤栄祐」って紹介されて、けっこうそういうパッケージは気に入ってて。スペース運営で考えると18歳からだから7年になるのかな。それくらいやってるから、場を主体としてコミュニティやイベントやコンテンツをクリエイションしていくってのが僕の活動のメインなのかなと思う。ギャラリーは4年やってみて、思ったのは商売が身にあっている。どうしてもこうゲイジュツとか、僕が当初やっている活動だったりとか、完全なる非営利なんですよ。むしろ営利なんてあってはならないっていう世界で。

 

──なるほど。

月1万でみんなで鍋を囲めば生きていけるじゃん。そしてそれが美しいみたいな感じだったから。ヒッピーカルチャーの延長線上みたいな感じだったのかもしれない。俺はけっきょくそれが性に合わなかったっていうことなんだと思う。自分がこういう企画をやりました、目に見える対価とレスポンスが返って来る。しかもそれが想像した通りに。それまでは、想像できないようなことが起こる、とか、ありえないことが起きたりすることに感動を抱いていたんだけど、そういう時期を抜けたというか。ランダム性がない、すべてが予想の範囲内でしか世界は動かない、みたいな状況を楽しめるようになった。商業とかギャラリーっていうのは、商業施設で自分たちがこういうこと考えてこういう結果を望みたい、こういう形のメディアに取り上げられたい、狙いが目に見えて形になって返って来る。それはモチベーションに繋がった。最初は厳しかったけど、翌年から売り上げがしっかり立つようになって。

 

 

5. 予想できる未来を用意した

 

──結果論ですけど、ギャラリー経営に才能があったんですね。

えーとね、そこは難しい話で。厳密に言うと、TAVギャラリーはギャラリーではないんだよね(笑)

 

──はいはいはい(笑) じゃあなんなの?

僕がこういう話になったとき必ず言っている言葉なんだけど、ただの白い箱だと思っている。ブランド。オルタナティブ・ブランドだと思ってる。

 

──あっはっは。オルタナ・ブランドっていいね(笑)

オルタナティブって言葉は今でも好きだね。

 

──便利だしこれしかないよね。

その時々にやりたいことを必死にやって結果を出すだけなんだけど、かつ、対照的なことだったりさ、一貫性を持たないという一貫性がオルタナティブだと思っていて。なんていうんだろう、自分が決めていた一貫性を更新していくと、たまに曲げてみたいな。普通のギャラリーだったらさ、こういう作品を好むお客さんがいるので、似たようなケース、似たような作家を集めたり、すごく狭いじゃない。かつ小さな世界でコレクターがいないって言われている社会の中で、小さい虫を取り合うみたいな業界で、大変だなぁと思っていたから、新しい客を作りに行く。同じような形質の作品を見せ続けていくのをそこから崩さないといけない。ってなったときに、まったく別々のジャンルだけ。お客さんを常に裏切り続ける。それが僕たちの主義。良質に裏切り続ける。そういうプランニングはこれから2年、3年とある。これからのTAVギャラリーの進化の形というのは作ってある。これは誰も予想できないと思う。だってこの日本でそんなことやってるやつは誰1人いないんだもん。

 

──それはとても楽しみだ。

本当にうまくいけば僕はたぶんどこよりも稼ぐギャラリーになると思う。賛否両論でると思うけどね。でも賛否両論出さなきゃやっぱ意味がないっていうか面白くないし。最近の企画は賛否両論つくれてなかったから、正直納得の言っていない部分もある。ギャラリストの態度っていうのを逆にしていて、じゃあ普通のギャラリストのイメージはなにかっていったらさ、一般的にって言い方は失礼なんだけど、ギャラリーに行くような志向性のある人とかが感じるギャラリストのイメージは「無愛想」で「お金持ってる人にしか話さない」という権威主義で情報をあまり開示せずに、誰よりも最も自分が芸術が分かっている態度をとる。そこを全部逆でいこうって「僕、芸術わかりません」みたいな。でも僕は誠意をもってギャラリーがんばってます! みたいなそういうスタイルで。で、来たお客さん全員と話すみたいな。ギャラリーなんて言ったって誰も話さないじゃん。

──確かにアットホームな感じはある。

アットホームではない。緊張感はもっているから。彼らは作品とか体験をしにきているわけだし、だから常に僕の中での課題はギャラリストらしくないことをする。

 

──未来のことをもっと訊くのはありですか?

あんまり話せないね。不確定要素が多いから。……いろんな人と出会ってさ、日本の美術史も多少知れてさ、それこそ東京で一番最初にコマーシャルギャラリー立ち上げた東京画廊の2代目の山本さんとかさ、それこそ会田誠さんをプロデュースした三潴末雄さんとかさ。いろんなギャラリストさんとかがあって、いい刺激も受けたんだよね。そういう人たちが抱えている問題とかまだ全然知りきれていないけど……。

 

──なるほど。

なんて言うんだろうな、信用の窓口になるって話だから。かつ、その値段をつけたり、作家を事実的にマネジメントするっていうさ、こととか。長期的に育てたりっていうのは。まるで違う。作家が展示スペースをやるっていうのは、借りてる家で自分の作品並べて人を呼んでいるのと全然変わりはない。

 

──肩書きはなんなの?

肩書き難民なんだよね。今。ギャラリストと言われるよね。抽象的だからさギャラリストって。イメージが固定化されてないじゃない。だから塗り替えることも可能で。俺みたいなやりかたでも価値として正当化できる風に思っている節があるから。もともとすげぇ金持ってるわけでもないし、コネクションとかも無いし。フューチャーだよね。フューチャーを作りたいよね。オルタナティブ・フューチャーを作る青年。

 

6. 現代を生きる若者へ

 

──わかりました。

スラムから出てきてさ。いろいろあるじゃん、企業系ギャラリーとかもさ、広告代理店とかさ、資本があるところから金が出てきて運営が回っているみたいなさ、とことかのプロセスを全部逆にしたくて。ギャラリストっていうのは基本的にギャラリーでの勤務経験がないと、ある意味プロとして認められないんだよね。ほとんがSCAI THE BATHHOUSE(スカイザバスハウス)から派生して出てて、どこからか卒業しました、中のお客さんとかを引き継いでやっているところがほとんどなんだけど、俺らなんか人脈がゼロだったわけじゃん。1から作って、方針も持って、よくわかんない若造が始めたギャラリーが企業系ギャラリーより成功するみたいなのはさ、ひとつのモデルケースとして夢があると思っていて、そういうケースに自分がなりたいというのが目下。国内だと珍しいのかもしれないけど、メインストリームとかもさ、国とかさ別にぜんぜん普通で。ギャラリーでキュレーターが展示することも普通だし、ギャラリストがお客さん全員と会話するって普通だし、自分がやっていることって珍しいことじゃなかったんだよね。だから当時作家的なギャラリーつーのが、NYとかで流行っていると言われていて。決して珍しいことをやっていたわけじゃなかったっていうことだね。

 

──本日はありがとうございました。

テレビゲームやっていい?
(※任天堂switchの電源を入れて、プロジェクターでゲームをしながら話し続ける)
何者でも無いけど、何かになれたらいいじゃない。なんかクソみたいなアレでまとめちゃったけど。ヤバいのがアーティストにアートとは何かという本質論的なところに僕がまったく入っていないっていうのがいいよね。で、じゃあ渋家の人たちとか、たとえば世海とかコバケンとか金藤みなみさんとか、稲田うつぼさんとかの人たちは展示してるじゃないですか。うつぼさんも福岡のアートフェアに急に出したりとかやってて。それはなぜかっていうと、僕はケイちゃん(齋藤恵汰)のことを尊敬してはいるけれども、すげぇ嫌いなところもあって。

任天堂「スプラトゥーン2」をプレイし始める佐藤栄祐さん

──ほうほう。それはどこですか?

あいつは本当の意味でただの作家なんです。ある意味、あそこに関わるコンテンツ、だから人材とかに関してはマジでどうでもいいと思ってるのね。

 

──それは感じますね。

本人がどう思ってるのかは分かんない。いろいろ思慮深くあんのかもしんないけど。そこがすごいもったいないと思って。これだけコンテンツの宝庫なんだから、もっとちゃんと価値にしろよ、みたいな。でもやる人いないじゃん。じゃあ俺がやろうって。

 

──そういう意識もあったのね。

中島晴矢さんとかさ、いい作家さんじゃないですか。展覧会やるとめちゃくちゃ売れてさ。やってよかったと思うよ。……あ、スプラトゥーンしながらインタビュー受けるもんじゃないな。

 

──私もスプラトゥーンしながら会議することがありますが、調子いいですよね。

もったいないなと思った。僕は渋家を本気で価値にしたいと思ったし、価値だと思ったし。僕があそこで得た知見だったりとか、得られたものとかは教養の基盤となっているので。そのくらいみんなは、みんなが感じたことじゃないのかもしれないけど、自分にとっての感じたものみたいのがあって。そういうのを体現したりとか、足りない機能としてあったりとか、そういう存在になりたかった。だって自分は何者でもないわけだから。それが還元するってことでしょ。役に立ちたかったんだよね。自分なんだろうってなったとき、両親ともに自営業の経営者だし、商売人なんだなぁと。商売は楽。コミュニティとかよくわからないことよりも。アートとかより簡単なんだよね

 

──言語がひとつしかないですもんね。

今更1人とかやったってダメなんですよ。すぐ結果が出たわけじゃないのよ。いろいろ遠回りしてるから俺も。一回、爆発的にバーンと売れたからっつってさ、作家さん来年も再来年もとか「取り扱い作家に!」とかしてないからさ。

 

──作家は上を目指したがりますもんね。

いろんな難しさがある。ギャラリー経営とかもね。正直なこと言っちゃうと、この時代において、この国内のアートマーケットの1%2%のシェアみたいな状況下の中では、作家とギャラリーの二人三脚の関係構築は不可能だと思っている。不可能だと……言い切れるなこれは。すごい簡単な話で。たとえば石田祐規の作品がひとつ10万円だったとするじゃない。僕が1年かけて10万で売りましたとするじゃない。それはいいとして、3年とか4年とか付き合って個展とかグループショー入れて、アートフェア出して、必死こいてやったけど、突破難しかったですってなったとき、あるとき急に海外からさ、クソほど力もってるギャラリー側から声かけられてさ「君すごい才能あるね」っつってうちのギャラリーのサザピースとか出すから来ないか? 10万円? 安すぎるね。まずうちなら100万200万という単位で取り扱えるようになるから、って声かけられるじゃん。「はい喜んで!」ってそっちのギャラリーに行くんだよね。競合が来た時勝てない。

 

──確かに勝てない。

利権商売だからさ。信用の奪い合いみたいな感じなんすよ、そいつに義理があるからとか恩義を感じてるからとかそういう理由でもなくて。だって、生活だってあるわけだしさ、経済的な都合だってあるわけだしさ。

 

──うん。

この前、ケイちゃんに言われたのが「栄祐やっぱりゲームとか好きじゃん、人に興味ないんじゃね?」みたいなことを言われて。そうなのかもって思っちゃったとこもあったんだけど。でも、みんな、ねぇ。どんどんポジションを持ってねぇ、大活躍されてるわけじゃないですか。

 

──渋家さんとは一蓮托生といった気持ちなんですね。

そうそうそうそう。そういうのはあるよね。勝負! みたいなところもあるよね。

 

──そこから独立してギャラリーをやっているわけですが、今の渋家に言いたいことはありますか?

もっと面白いコンテンツ作って! ムーブメント作って! って思うね〜。今の若い子には。あの……ホワホワしてんじゃねぇっていうか。もっと危機感持てよ、とは思う。

 

──それには同意なんですが、それが今を生きる若者に通用するのかというところがあります。

世代はあるからね。色々。奴らには奴らなりのロジックがあるし。

 

──もっと本音をお願いします。

ムーブメントを継続させるのは、ぶっちゃけて言うと、無理だね。無理。いまムーブメントになるのは #metoo とかだから。ムーブメントとか無理でしょ。今。マジきついよね。

 

──炎上しかないですね。熱狂よりも炎上のほうが作りやすいという。

あの頃はまだよかった。だからクラウドファウンディングとかなくて、SNS出て来たころらへんに、集団化した上で資金を呼びあつめするとかさ、できたことがあったじゃん。ITが発達してどんどんサービス化されたりとかしてさ、かつこのグローバリズムの中でさ情勢もさ不安定ななかでさ、怒りの伝播というかさ怒りの共感みたいなものしか産み辛くて。渋家のもともとあった土着性だったり良さみたいなところの共感ってしずらくなってるよね。呼び込み辛いところはあるなーって思う。前よりキツい状況だと思う。

 

──そうだね。

文化とかさゼロからやっていく身としてはめっちゃキツいと思うなぁ。やる気なくすよね。

 

──やる気。

俺らもなくさない? 無くしてるじゃん。社会情勢的な問題に、なんかなぁと……思うのだけれど。つーかヤバいよね社会。コンテンツの消費スピードやばいよね。

 

──確かに、5年前みたいな希望は今持てないですね。

5年前はどんな希望もってたの?

 

──普通に、もっとシーンが作れると思ってた。

小さくは作れてるんじゃないの?

 

──小さくはね。それが今になって生きて来ているのとかは面白いです。

展示はじわじわ効くよ。だからアーカイブは重要。

 

──最後に、これからギャラリーを始めたい若い人たちにアドバイスをお願いします。

これはさ僕がギャラリー始める前に、彩戸恵理香さんいるじゃん? 彩戸さんが眼科画廊のディレクターのたなかちえこさんに「私の友達がギャラリーはじめるってよー!」って言ったんだって。そしたら「絶対やめたほうがいいわよ♡」って言ってたのを彩戸が俺に伝えてくれて。その言葉がすごい鮮明に残ってるんだけど、俺は同じ言葉を返すね。ギャラリーなんかやる必要はない。アーティストがやる表現とか、アーティストのやっているギャラリースペースとかあるでしょ。あれ全部やめたほうがいいと思う。ギャラリーとアーティストが作る展示スペースってのはまったく別物。まるで違う。ギャラリーはやっぱり信用商売。

プロフィール

佐藤栄祐 Eisuke Sato

1993年生まれ。東京都出身。2011年から空きスペースや借用物件を利用しコミュニティやプラットフォームを作る活動を続け、その後、様々な分野で活動するキュレーターを所属させた現代美術ギャラリーをオープン。新たな芽の発掘を目的に、3年間で50近い展示をおこなった。