演劇に出自を持つ齊藤広野(さいとうこうや)は、渋家と2017年に遭遇し、物語性に惹かれるうちに渋家代表を13代目と15代目の2回を経験した。無事に次世代を輩出し、卒業して思う渋家のこれからと齊藤自身の歩む道についてインタビューを行った。
鴻上尚史がピルグリムを2019年に再演することは何かしらの意味があったのかもしれない。オアシスにたどり着いても何もない。オアシスはその過程を指している。オアシスに家を建てたらそれはユートピアになってしまい、存在しない場所になってしまう。オアシスはどこにも存在はしていないけれど、僕らはオアシスを求めてさまよい続けなければならない。
──2019年末の齊藤広野のメモ書き
構成=バグマガジン編集部
〝渋家ゲーム〟のテーブルトーク・グラウンド
──これまでの代表は「渋家は小説である」や「渋家は演劇である」などと様々な例えで表現してきましたが齊藤さんはどのように渋家のことを捉えていますか?
まず、代表やったのは2018年末ぐらいから。
──間を空けて2回やっていると伺っております。
併せて1年半ぐらい代表をやったのかな。
──1回目がいつですか?
那須公一(11代目代表)が辞めてやだなな(12代目代表)が代表になって、やだななが2週間で飛んでから、そこから1ヶ月空白期間があって代表になったからたぶん2019年の1月か2月に代表に就任しました。自分では渋家のことを「オアシス」って言葉を使うようにしていて、それは渋家自身の大きなテーマであり課題だったんだけど、僕が渋家に入ってきてKENTの匂いを引き継いて公一が引き継いていたりしたんだけど、そこのときは自分たちでやっているという感じがあったし、自分たちの空間にしようという気概が強くて。新世代という言い方がすごいされていて、そこから入ってきたメンバーがなんとなく、つばさとかあいりの後のメンバーぐらいからは、渋家を憧れてきている人とか、渋家にいたら変わるんじゃないかとか、渋家自体がコンテンツ自体になっている人が増えてきたのを感じていて。
──「参加者」ではなく「お客さん」が来てしまったと……
それがなんでだろうと思った時に、本来渋家があって欲しかったのが空間としてあるけれども、それはあくまでなんらかの目標があるときの自分の創作だったりやることがあるときの……言ってしまえばモラトリアムのような大きな休憩だったりとか一旦渋家いるけどそこから何かをしていく人が一定数いるからうまく回っていた。そこをオアシスと呼んでいて、メンバーがオアシスって呼んでいる場所に住み始めたっていうのがすごい大きかったかなっていう感じがして。逆に言えばオアシスに戻したいっていうのを考えていた。みんなが「この場所にいたい」っていうのと「この場所にいちゃだめだ」っていう気持ちのせめぎ合いを起こしていくというのが渋家としてのテーマだった。それがあったから面白かったなっていうのは思ってた。オアシス自体は鴻上尚史の戯曲『ピルグリム』からの引用で。原典ではヒッピーっぽいコミューンを作って、そこを安定させようとして壊れてしまった。そこを固定したからコミュニティが壊れてしまったという。その理想郷に安住しちゃったからうまくいかなくて。それを彼は「オアシスのユートピア化」と呼んでいました。
──オアシスである渋家がユートピア化していたということですね
そうですね。
──ユートピアの定義が分からないのですが
オアシスっていうのは旅をするときの中間地点。オアシスは目的地ではないということです。そこに家を建てて拠点にしてしまうとオアシスという概念が崩れ去ってしまって、目的地化してしまう。
──なるほど
それが起きた原因っていうのが新世代になったというのがひとつデカくて。「憧れ」という概念が新しく渋家に生まれました。
──きっかけとなる出来事はあったんですか?
存在として大きかったのはのち(14代目代表)かな。KENT(10代目代表)とのちでは憧れという面では同じだったんだけど、KENTはとしくにとか齋藤恵汰と関わっていたけれど、のち自身はあまり関わっていないから、そこで関わっていたら何か違っていたのかもしれないけど、関わらないと言う選択肢を渋家がとっていたから「憧れ」という概念を跳ね返すことができなかった気がしていて。
──「憧れ化しない」というのは大事な仕事だったのかもしれませんね
としくにさんが的になろうと振舞ってくれていてくれた気がしていて、としくにさんが渋家に対してアンチにいることで──アンチじゃないな、ライバルじゃないけれど上の世代として立ち位置をとってくれていたけど、それを良い方向に働かせることが私たちにできていなかったのかなって。端的に反抗してしまっていた。
──それはKENTさんがとしくにさんに対してですか?
いや、のちとか、新しい世代のメンバーですね。
──前の世代が嫌なのに、憧れているってなんだか矛盾してて掴み所がないですね……
嫉妬に近い感情かなぁ。
──タイミングとして記憶にあるポイントはありますか?
KENTが関わらなくなり始めてから……? KENTが関わらなくなったのは1年半ぐらい前(2019年夏)ぐらいから距離は置き始めていたから、そこから雰囲気は変わってきたかな。「家として住む」という概念がどんどん増えてきた。
──そこの流入って止められないほどのパワーがあったんですか?
止めるというよりかは、もう中にいるから。
──すでに中にいる人が変化してしまうと
変化してしまったから出すっていうのはしんどい選択だから、また一緒に変わっていくという選択肢をとっていたけれど大変なことも多かった。誰かが「次の何かやろうぜ」って言い出せない状況になってしまったね。それがうまく次のステップに進んでくれてよかったなって思います。
──のちが代表の期間はどれくらいだったの?
4ヶ月ぐらいかな。
──直近の代表はこうやさん半年、あやの4ヶ月、再度こうやさん1年という形だったんですね。
そう。2020年の2月から6月までがのち。7月から今まで。今は潰さないように維持しながら、リセットをしたいなと考えていました。
──それが代表としての直近のお仕事だったんですね。引越しはいつでしたっけ?
2020年の4月末です。
──引越ししてどうでした?
引越しは楽しかった。それで熱量が上がったりを感じたけど。4thの引越しっていう負担がデカすぎて、それで力尽きちゃった人が多くて、そこからぽろぽろメンバーが減っていく感じがしていました。
──「これ」っていう出来事がなく、じわじわなにがしかのダークサイドに侵食されてしまったのかなと思ってて、それがまた対応できなかったと思いますし……
あんま大きい事件がなかったな、というのがここ最近。
サマー・オブ・ラブを巻き起こしたヒッピー達もその多くは親が金持ちだったらしい。親の金で世界を変えたと言われれば具合が悪いけれど、親達にもそれなりの覚悟があったに違いない。結果論としてヒッピー達が盛り上がったのかもしれないけれど、必然性もあったとは思う。
現代のドラッグはインターネットだった。インターネットによって新しいカルチャーがいくつも生まれた。ただ、インターネットは今見えざる権利者によって規制されてしまったようにも見える。この先にフォース・サマー・オブ・ラブが待っているかはわからないが、少なくともかつてそうやってレイヴは起きたんだと思う。
──2019年末の齊藤広野のメモランダム
フラストレーションが〝爆発〟じゃん
──渋家のアート領域からコミュニティ領域への変動に関して、内部の意見はどうでしたか?
意外と批判はなくて「割といいんじゃない!」という感じだったけれど、家は欲しいという結論。
──ただ構図が複雑すぎて(誰も)手は出したくないと。
うん。そういう感じがするなぁ。渋家は家だ!という気持ちがみんな強かったと感じます。
──「渋家の代表をやらざるとえない、やらないといけない空気感」というものがあると思うんですけど、まず最初に代表としての仕事はなにをしてました?
俺も割と作家性が無いほうだから、「あれはいやだ、これはいやだ」ってのはあったから、感覚的に盛り上がってないなっていうのはすごい感じていました。少なくともなにか賭け事、チャレンジはしていきたいなってのはすごいあったから、失敗してもいいから今までの渋家からは脱却してみたいというのがみんな高まっていたから新しい概念への跳躍へ臨んでいました。
──どんな議論があったりしました?
前の世代に対してフラストレーションとか、違うことをやりたいという気持ちが強かったと考えていて、俺はわりとどっちでもよかったから、クラブイベントとか映像とかが多かったのは良いと思っていたけれど、後の世代からは「音楽やるならクラブミュージックは嫌だ」というニュアンスがあってどっちかといえばインスタレーションがやりたいと。それでイベントではなくインスタレーションが多い時期があったんです。
──そういえば多かったですね。外側にいると内部で何が起きているか分からなかったので、疑問が解決しました。
少なくとも今までの渋家とは違うことがやりたいっていう感じがすごかったな。
──5thハウスからさらに引越ししたいという意見はでなかったんですか?
やっぱり体力がなかったのと、お金の問題が4月から7月まで続いていたのとそこが解決しないうちは次っていうのは考えられなかったと思う。
──としくにさんから「渋家の看板下ろしてもいいよ」という打診が来ていたところまで追っていたのですが、どういう文脈でそのようになったのですか?
昔から渋家という名前が大きくなりすぎて、何か新しいことをやるたびにOBからの批判が来ちゃうという感じになっていて……。新世代がゼロから始めたことを「渋家落ちたな」って言われるのが多くなってきちゃってて、それはとしくにさんも感じていていたようです。ひとつ大きかったのがTwitterで「渋家引っ越しました」というふざけてツイートしたら内部で炎上しちゃったというのがあって。
──自分たちのコミュニティだと思っていたのに、その裾野が想像以上に大きかったという……。
それがけっこう渋家内部の人にとってはダメージにはなった。
──引き継ぎというは想像以上に困難なのですね
今までとは違う文脈で、新世代のクリエイティブを〝もう一度作る〟のって大変なんだなって気づきました。
──「渋家は、齋藤恵汰の作品である」という文脈で見ると批判は避けられないので、違う文脈を模索しつつも代表作が作れなかった苦しみというのがあるんでしょうね。映画でも音楽でもよいけれど、代表作がひとつあれば周囲の態度が違ってきたのかな、と振り返ってみて思いました
Imaginary LineというイベントでKENTらと舞台美術の仕事と、もうひとつ、展示周りのことをやっていてそこで何かもっとできたらと思うんだけど、そのタイミングで速度を失うという悔しい出来事もありましたね。藤田直希のメンタルの落ちこみも大きかったです。
──KENTさんの離脱と、藤田直希さんのメンタル的喪失というのが大きかったんですね
振り返るとそうですね。
──引越すときにメンバーを絞ったりはしなかったんですか?
メンバーが多すぎて管理しきれないからどうしても密度を上げていかないときにその話はあって、5〜6人ぐらいに絞ろうと思っていて。そのときに俺が忙しくてパンクしちゃって、最終的に(当時の代表である)のちに任せるという話になって、最終的にのちの決断としては「全員つれていく」っていう。
──ひえー
そこでなんやかんや引越したあとに、もちこが部屋を占領するという出来事があって。配信とかやっている人だったので、そのほかの渋家の音にものすごく文句を言うようになってしまって。メンバーからもヘイトが溜まってしまって解決が困難な状態で、渋家の出来事が止まってしまった時期があって。
──それに即座に対応できなかったのは悔しいですね。「渋家が元来もつ優しさ」の搾取だ……
最終的には家からは出したんだけれど、今思い返せば引越すときにメンバーを絞っていれば未来は変わっていたかもしれませんね。
インターネットはフォントを民主化し、メディアの地位を相対的に下げてしまった。メディアが弱くなって今度はアートの足場が狭くなった。ただ、生の感情の地位はむしろ向上した。出会いに価値が生まれ、それをビジネスとして成功させることができるようになった。
ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん
ってのをエウレカセブンでよく出てくるんだけど、この言葉がすごく好き。元は聖書の「求めよ、さすれば与えられん」なんだろうな。去年は何回もこの言葉を思い出していた。語感がいいよね、リズム感というか。真っ直ぐだし。
──2019年末の齊藤広野のメモランダム
情では〝この家〟は作れないぜ
──そうなったときに「渋家はそうやって追い出す家じゃない」とか「もっと早く言ってくれればよかったのに」とか言い出す人が現れると思うのですが、そのような無責任な正論ロボットに対してどのように対処してきましたか?
そこの〝警察みたいなもの〟が機能しなくなってしまう「ヒーラー」と「ヘイトを買う人」が両方いないとうまく回らないし、プロレスだから結局。
──そういったものを吸収する白血球が必要だし、それを自覚しながら1人で役割をこなすのは大変でしたね。少なくとも4人は欲しい。その苦しみはお察しします。渋家がトラウマになったりはしなかったんですか?
それは全然ないかな。トラウマは全然ない。優しくしすぎないのが大事ですね。
──そんな渋家で学んだことってありますか?
もともと人とそんなに話すタイプじゃなかったからちゃんと人と話すようになったのと、あとはなるべく同じ状況に持っていかないと話が進まないから「食卓」とか「お風呂」とかを使ったのかな。家の中で腹割って話せるのは食卓と湯船ぐらいしかないかなって。
──こっちがどんなに心を開いても、返ってこない人もいるじゃないですか。そういうとき「どこかで線引きをしないといけない」と思うのですが、どうのように線引きをしていましたか?
自分がときめくか…………。かな?
──こんまりさんじゃないですか(笑)
わりとそこでテンション上がるかどうかで線を引いちゃってるかな。
伝統とは火を守ることであり、灰を崇めることではない。もしも薪をくべることができなくなったのなら、少し後ろに下がって手に持っているものをすべて吐き出す覚悟が必要になる。自分達が持っている権益は後の世代の首を絞めることになる。大きな火を見たいのであれば、自分の持っているものをあきらめる覚悟が必要になる。
──2019年末の齊藤広野のメモランダム
アフター渋家の〝やりかた〟
──渋家での仕事が終わり、次のプロジェクトは名前決まってますか?
オアシスが気に入ってるからそのまま名前にしようかな。家じゃなくて仕事を目的にしたプロジェクトにしようと思っていて。渋家でうまくできなかったところだから。ひとつやりたいのは密度を高めて物を作るのと、そこから仲間を広げていきたいなっていう。コミュニティは好きなんだけど、コミュニティはあくまでも線引きをしないできるのはもうやらない。線引きをちゃんと作ってコアと取り巻きがきちんといる居場所はつくるかも。
──新メンバーは誰を呼んでいますか?
つばさ、あいり、サイコ、くれは、ちひろ、ドロかな。やっている領域がそれぞれ違うから考え直すかもしれない。領域を固めてもいいと思ってて。
──どちらかというと「コミュ二ティ」ではなく「チーム」のようなテイストでやっていきたい?
一旦チームという形で進めていきます。何よりもお金がないと始まらないというのを改めて痛感したので。
──表現を絡ませるときに演劇とか舞台にたいする頓着はあるんですか?
演劇よりかは「食」のほうが好きかな。演劇だと好きなのがエチュードとか、台本が決められていないものが好きで。渋家では「食事」と「食卓」という言葉を分けて使っていて、ご飯を作るんじゃなくて、食卓を作るようにしてました。人が集まって初めて料理と遭遇して空間ができあがる、そういったエチュードっぽい空間。楽しくやりたい。それを毎回作る(笑) それが演劇でも好きなところだったから。
──新しいメンバーとの打ち合わせはどうですか?
今の家をどうするか、次の拠点をどうするか……。などなど現場の処理について考え中だから、うまくまとまっていないですね。拠点は必要だからそこをなんとかしないとだし。今の家の片付けも残っているからどうしようかなって。
──これまでで一番印象にのこってることはなんですか?
10周年パーティーですね。新旧メンバー勢揃いだったし、なにより議論も喧嘩も一番多かったし。二度とやりたくないけど(笑)やっぱり、KENTと何かを作るのが一番楽しいです。
──KENTさんは戻ってくると思いますか?
としくにさんとKENTのわだかまりが解消しないとだけど、戻ってきて欲しいですね。
これからは僕らはどうしようか。俺は小さな社会を作りたい。大きな社会に立ち向かうのではなく、小さな社会で価値観を新しく作り直したい。カルチャーは常にものを作れる環境とその場所にいる人の正義によって成り立つ。これはずっといつの時代も変わらない。
──2019年末の齊藤広野のメモランダム
プロフィール
齊藤広野
1995年生まれ。Webエンジニア, 料理人, ディレクションなどを手掛ける。
2017年より渋家で活動をし、主にイベント, MVなどを製作してきた。演劇や映画を好み、自身と他者の関係性の再構築について、食事や様式を用いて表現する。食と対話の縫合をテーマにしたインスタレーション『Hand to Mouth』(2019)では、自身で食事をすることができない食事会を行った。
編集後記 その後、2021年2月1日をもって渋家の代表は齊藤広野から上梨裕奨へと引き継がれた。渋家に伝わる「前代表の理念は次の代表で実装される」という言葉通り、16代目代表の上梨によって「メンバーの数を減らし強度を高める」ということが実現された。