巌農記 第一幕「ゴマ記」

著:荒渡巌

 


拠点にしていた東京を離れ、とある農業施設の研修生になって一ヶ月が経つ。年齢も出身もまちまちな同期の研修生5人と、海外からの研究者2人、寮長を含めた9人からなる壁の薄い寮生活にもそろそろ慣れてきた。

施設には幾つかの部署があるのだが、自分を含め2人の研修生が野菜栽培を担当する研究員を補佐することになっている。本年度は約6反(6,000㎡)ほどの試験圃場に20品目弱を作付けする予定とのこと。4月に入りじゃがいも、トウモロコシの播種に始まり、育苗の済んだキャベツ苗の定植までが済んだ。ビニールハウスではナスやトマトなどの夏野菜が狭い電気温床の中でポット一杯に双葉を広げ、大地に根を張るその日まで手塩にかけて育てられる――

「播種」、「育苗」、「定植」。畑仕事をする上で当たり前に使われる用語だが、実際は聞き慣れないものではないだろうか。研修が始まるまでは、それらが一体何を含意しているか、また話者が何を意図して使用しているのか正直なところ分からなかったし、いざ研修が始まれば顔面の目の前を凄まじい速度で飛び交っている。自分の研修は無知がバレないようにスカした顔で農業用語をググることから始まったとも言える。それまで本などでしばしば触れてきたはずではあるのだが、イメージの充填されていない、まったく空っぽで他人行儀な、借り物の言葉であったのだ。

今はそうした言葉を聞けば即座に何かしらの情景が眼に浮かぶ。しばらくのあいだ追憶に遊ぶことすら出来る。腰の痛みがぶり返してくるような気もする。体験するということは全く、言葉を得ることであるよなと思う。

とはいえ、言葉は得ることもあれば失うこともある。

つい先日、バーミヤンで食事をした。バーミヤンというのは株式会社すかいらーくグループの経営する中華料理レストランチェーンで、関東と関西を中心に展開している。九州や東北、北海道の人には馴染みが薄いと思うが、紹興酒や焼酎が100円で飲め、更に店舗によってはボトルキープまで可能というファミリーレストランにしてはやや尖ったサービスを供しており、複数人で飯屋を探すという場面では密かにバーミヤンに集団の意思を誘導しようとするくらいには気に入っている。

箸を親指と人差指の間に挟み、合掌しながら「いただきます」と言う、その芝居がかった仕草が嫌いではない。目の前には小気味よく裁断されたレタスや蓮根、トマト、エビマヨなどに彩られたサラダが置かれている。生育温度に関係なく多様な野菜を組み合わせることが出来るのはハウス栽培と物流のお陰であるな──生野菜は輸送コストの問題も鮮度の問題もあるしこれからも国内産しかあり得ないだろう──それぞれの産地がどこかなんて聞いたら店員さんどんな顔するのかな──というようなことを申し訳程度に考え、味わうのもそこそこに箸をせっせと口に運ぶ。

空腹に流し込むようにかっ食らったためか、満足感を覚えるには至らない。食後の甘味に胡麻団子を追加オーダーした。

私事ではあるが、10回バーミヤンに行ったならば9.5回は“はちみつ揚げパン バニラアイス添え”をオーダーする私である。カリカリの中華揚げパン(油條という、小麦粉の生地を棒状にして揚げたもの)にはちみつとバニラアイスがトッピングされており、非常に多幸感のある食べ物である。共に食卓を囲む友に「食べる?」とシェアの意を表明することなく真っ直ぐに皿をなめ尽くしてしまう。腹一杯でも二皿はイケる。

はちみつ揚げパンは自分がバーミヤンに行く楽しみの一つだ。しかしその日はやたら、視界の端に映る胡麻団子の写真に眼が奪われていた。

皿が片付けられ殺風景になった卓に、リアル胡麻団子が去来する。何の変哲もないステレオタイプなやつだ。味も想像を裏切るようなものではなかろう。しかしなんだろう、この違和感は。“胡麻団子”という単位としてそこに在るべきものが、見慣れぬつぶつぶの球体として挑発的に対峙してくる。皿も、机も平生のままであるというのに、胡麻団子だけ解像度が100Kくらいないか?

よくよく手にとって見てみれば、これは種だ。種であることを微塵も隠せていない。きつね色に焼き揚がった種子が白色の球体にビッシリとへばりついている。どの角度からみても依然として種であり、“ゴマ”であることより先に「種です!」なんて自己紹介されてる気がする。うろたえながら咀嚼すれば、確かによく知った風味もする。

今までその“ゴマ”なる種は単なる食材でしかなかったし、深く観察しようともしなかった。それが、いざ不意に100Kの解像度で迫られるとかなり迫力があって吃驚する。高温で炙られ発芽機能を失った種子ひとつひとつのデスマスクがびっしりとこびりついているかの様でもある。齧りつき、咀嚼するその時、俺は胡麻団子を食べているのではなく「ゴマという植物の種だったもの」をすり潰している。

生産というのは無から有を生み出すことでは決してなく、何らかのモノを変形させたり、変質させたり、それらを組み合わせたりしてヒトに有用な機能をもたせることに他ならない。

食は特に、その様な人間とモノとの関係性が今なおワイルドに、直截的に残ってる現場だと思う。自分はどちらかと言えば調理が好きだし、食材に対する意識も低くはないとは思う。にも関わらず、“ゴマ”という食材の野趣味の溢れるヴィジュアルに今さら度肝を抜かされることになるとは、観ることを役割の一つにしている美術家の端くれとしてはなんとも口惜しい。

そのようにして、私はいつの間にか“ゴマ”という一句を失語していた。その違和感はいずれ日常の生活の中に埋没していく。それでも“ゴマ”が“ゴマ”であり得なかった中華レストランでの一件は、いつまでも忘れられないことであろう。そうした古傷のような忘れ得ぬ一幕だけが、過去に己が在ったということを確かにしてくれる。私はこの先も、何かを失語することがあるのだろうか。

ここまで目を通してくれた読者の皆さまなら、20~30Kくらいのゴマなら体験できると思う。炒り胡麻を常備してるなら、解像度が落ちない内に今すぐ手の平に広げて観察してみて欲しい。そしてスマホで撮影をし、「ゴマめっちゃ種!#ゴマ #胡麻 #種 #ファイダー越しの私の世界」みたいな感じでSNSに写真付きで投稿したらどうだろうか。フォロワーもたまには間引きをしたほうが良い。


 

荒渡巌 Iwao Arawatari
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1986年東京育ち。2017年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。SNSのコミュニケーション空間やディスプレイに投影される画像がもたらす特殊な体験に傾注し、制作を行っている。サロン・ド・プランタン賞受賞。主な展示に「転生 / Transmigration 2015」Alang Alang House(ウブド)、「カオス*ラウンジpresents『怒りの日』」(いわき)などがある。若手芸術家による実験販売活動「カタルシスの岸辺」の店長でもある。2018年3月より長野県某所にて農業研修中。