写真家 村田絵梨子に訊け

どうして私たちは写真が大好きなんだろう。その答え、彼女が知っている。私たちってなんで生まれたんだろう。生きることについてのお話もあるけれど、基本は村田絵梨子の個展が開催されるっていうんで、それについてインタビューしてきたよ。

村田
自分なりに毎日思うこととか、なかなか出てこないタイミングで会ったり喋ったりすることが多かったんだけど、石田さん(ECD)さんが亡くなったことで、別に近いわけでもないけど遠いし。なんか絶妙な距離の人が亡くなって、今まで隠していた気持ちが出てきた気がするんですよね。うまくいかないことの方が多いじゃないですか、この世の中。ひとよりそれを考えちゃうからさ、すごいこう、自分の本当の気持ちが分かってても、分からないふりをして辛くないようにしていたんだけど。無くなるって分かってたものが無くなるだけで、こんなにセンチメンタルな気持ちになるっていうか、悲しいんだなって思い出した。好きな子がいて、想いが叶わなかったりするじゃん。そういうことがあっても何とかなるし、別にそんなに大変なことじゃないって自分で思うようにしてたんだけど、そうしたって消えるわけじゃないから、というのを思い出しまして。

私はセンチメンタルな人だったんだ、というのを思い出した。だから写真が続いているのかなって思ったりして。人が死んだってことで何かを思うのってすごいダサいなって思うんだけど、改めてあったものが無くなったりとか、写真は残るんだけど、あった事実は無くなってるじゃん。それが改めて分かった。だから写真はずっと残るけど、思い出は無くなっていくんだな、と。

すごく現金な話なんだけどさ、それはけっこう悔しいなと思う。そう思った自分がやっぱりまだ若いんだなって実感を。

それは生活に対して思うことと変わらない一本の線があって、変わらないところで思ったこと。

 

1. 個展開催について

タイトル「かゆくてもかいちゃだめ」
なんだけど、どうしようかなと思って。まだ(展示を開催する場所に)行ったことがないから。できるんだったら向こうで選んで向こうでやろうかなって思うし、そのときどきにやりたいことをやりたいなという気持ちがあるから、終わるたびにやる展示って、そんときできることをやろうという気持ちがあるので、どうすればいいのか迷う時期が1ヶ月ぐらいあるんじゃないかな。向こうに行って確認するまで、分からないけど候補はいろいろあったりはする。石田さんが亡くならなかったら「かゆくてもかいちゃだめ」でよかったんだけど、なんか、やっぱりそういう風に軽くいけないんでした私、というのを思い出して、心境の変化がありまして。

一貫して言えることはタイトルが変わっても場所が変わっても、世界には写真があるんだということをやっていきたい気持ちが強い。それはどの展示でもどの本でも変わらないこと。ここにあることをどうやって、悪くないなって思うか。というのが生きていくのに上手なやり方だと思うから、それを写真でやるというか。あんまりそういうことでもないんだけど、強いて言うなら。

 

──はじめての個展ですね。

初めての個展でございます。個展っていうかね。気持ち悪いね。すごいこうさ、そんな感じじゃないんだよね。ただ写真をやるのに。写真を1人でやる場所があっただけだけど、それを個展という言い方をされてしまうのは恥ずかしいよね。カテゴリーを与えられて安心するのはすごい気持ち悪いんだよね。一番変わってるとか、学生だ、フリーターだ、とかもそうだけど、そういうのが気持ち悪いから。個展って言うのって恥ずかしいなって。

 

──村田絵梨子の悪あがきってことで。

あっはっは、そうですね(笑) 人生悪あがきってことで。こうだって提示されるものってあるじゃん。そういうのって、すごいアーティスト気質の人って跳ね除けて提示できたりするけど、私は写真だし、アーティスト性はいらないし。アーティスト性はないし、いたって健康だし、何かをやるにしては何も変わったことがないし、LGBTでもなければ、もうすぐ死なないし。絶望感みたいなものがない。普通の人なんですね、家族とも仲良いし、だから気になるんだよね他人からの目というか、世の中がこうって示すものとか人からの目線が気になる。型って人が作ったものじゃないんだよね。きっと。自分が作っていくものだし、作りたいし、人から示されたものにハイハイと行くほど暇じゃないぞと。暇なんだろうねきっと。忙しい人だったら、型にはまっていけば点数は取れるけどね。暇なんだよね。遊びたいんだよね。もっとおいしいところを掬っていきたいよね。だからそのためには型に入るだけじゃ美味しくないよね。気持ち良いのがいい。気持ち良いってのがあるのさ。なんでか知ってるんだよね。なんでだろうね。いいお母さん、いいお父さん、いい兄弟、いい周りの人だから。そりゃ自由に育つのかなって思うけどね。

 

──じゃあなぜ写真をやっているのか?

なんでだろうね。なぜ続けられているのかというところかもしれないね。大学に行く人生だと思ってたんだけど、どうやら、社会の先生になりたかったんだけど、社会の先生がすごい良い人で。「食っていけないよ」って言われて。別にできることがあるよって教えてくれたんだと思うけど、それで止めようと思って、もともと映画も好きだったし、絵は描けないけど、自分から何かが生まれるタイプじゃないと思ってて。で、美大に行こうと思って予備校とかにも行ったし、結局美大に行くのはやめて。直前まで悩んでたんだけど、高校の時映像の授業があって。総合学科だったから。班でひとつ映像を作ろうという授業があって、映像ってグループワークだったんだって。めんどくさい。みんな普通の高校生なんで、映画とかも見ないし、そんなやつと一緒にモノなんて作れねぇってなって、1人で写真を撮ったらクラスで一番上手だったから、じゃあ写真やろうってなって、美大をやめたら専門学校にしようとなった。親も専門学校行ってたから、むしろ大学に行くって選択肢はあまりなかったんだけど。そしたら友達が専門学校のパンフレットを持ってて、写真の。でも行かないかもなーみたいなことを言ってて、じゃあ私が行くわってなって。すごい動機が不純で、一番上手にできたものだったからそれだけやってみようって。自分の写真に人はいっぱい写ってるけど、もともとそんなに友達が多くて……なんだろ、友達は多いんだけど、わいわいガチャガチャやるほうじゃないから。やっぱり大学に行かないタイプなんだなってことは分かった。外から見ればそうかもしれないけど、なかなかこうすごい内向的なもので。外の社会はちょっと厳しい。

2. 専門学校での出会い

村田
これちょっと話そうと思ってたんだ。専門学校で写真をちゃんとやっている人っていなくて。まず、商業的な人と、写真の技術を勉強している人と、作家みたいなタイプの子がいる。なんのカテゴリーでも真剣な人、本気な人っていうのがあんまりいなかったんだけど、良い先生にも会ったし、それぞれの分野でいい先生にあったし、いい友達にもあったしだね。そこで出会った友達と今一緒に住んでるし。まったく知らなかった写真というものがこんなに難しいものだとは思わなかった。難しくはないんだけど、奥が深いとは思わなかった。もちろん歴史があるとかそういうのは考えれば分かることだけど、その歴史がここにあって、ルーツがあってというのが考えられなかったからさ。若くて。そういうのが冷静に分かるようになったりしたのはよかったし、反攻していくって態度が大事みたいで、写真ができない子、やる気がない子とかもいて、人の振り見て我が振り直せじゃないけど「こうなってはいけない」みたいなことがすごいあったから、あんまり好きじゃない写真を見て好きな写真を撮ろうと思ったりとか、自分の好きな写真が分かったりしたのはよかった。でも、それは二年生のときで、三年制だったから最後の1年は、やる気のない写真でも下手な写真でも面白がれる方法というか写真を好きになってすごいよかったです。写真と出会ったのが一番あれだね、専門学校に行って得たことは。もともと出会っていたけど「あ! あなたってこう言う人だったのね。そっかそっか」みたいな。隣の隣のクラスにいることは知ってたけど、こんなに素敵な人だったとは。こんなに気難しい人だったとは、でもそこが素敵よ。と、それが収穫かな。

 

3.撮り続けているモチベーション

村田
外の世界がそこにあるだけ。モチベーションというよりかは。受け取る作業があったら、それを受け入れるっていう作業があって、受け取らない人もいるけど受け取るタイプ。それを出すことってすごく当たり前だから。もう、そこに、日本があって目の前に人がいるから、続けない理由はない。続けない理由はないってのがモチベーションなのかな。もうなんか面白くない答えなんだけど。なんだろうね、自分の前から世界がなくなったら、すごいこうボンヤリしたことを言うけど、すごい現実的だと言うことを分かっていただきたいんですけど、もし世の中が真っ白、ホワイトバックの世界になっちゃったら私は写真を撮らないたぶん。そこに友達が何人いても……。友達がいたら撮るかもしれないけど。違うな。私が写真でなにかを表現したいんじゃないから、真っ白な部屋から何かを作り出す必要がない。でも、ここにはちゃんと世の中があって、人はそれぞれ回っていて、建物が建ち、壊れ、人が出会い会わなくなったりということが続く限りは、写真を撮らない理由はない。

 

4. 記録でも表現でもない

村田
でもやっぱり、さっき私はツイートしてたんだけど、記録と芸術というものがあって。自分がどっちかなって考えたとき、記録寄りではあるけれど、別に記録というわけではない。そう考えたら、ここに急に写真という点が現れて。これ写真やってる人だったら分かると思うんだけど、別のベクトルがそこにある。写真ってそういうことなのかな。記録でもアートでもないし、私がやりたいのは写真というそのものであるなというのを思った。私がやっていることをアート写真をやっていますじゃなくて、ファッション写真、仕事とかじゃなくて写真というものをやりたいという気持ちが、伝わるように写真をやっていきたいなって。私は写真をやっていますと言って通じる世界を作りたいなって思っているのね。思っていました。記録ってさ記録したいって想いがあるからかなぁ。表現って表現したいことがあってそれを形にするわけじゃん。だから、人が頭でこれを作りたいって思ってることがあったら、例えば三角を作りたいと、そしたら三角に近づけていくことが表現だと思う。イメージしたものを出すとか、こう思って欲しいということを表に出していくことが表現なんだと思う。記録っていうのは流れ…変わっていくものを、街だったりとか赤ちゃんだったりとか。そこの今を残しておきたい気持ちというのが記録にはあるんじゃないかな。どっちの気持ちも普段生きていて思わないわけよ。すごい自分に子供が生まれたりしたら記録になるだろうし、突然すごい境遇になってしまったら、たとえば急に病気になって死にかけたりしたら、どっちかに振れると思う。そのときの状況によって今を記録したいと思うかもしれないし、死んじゃうっていうことはこういうことだから、それに対してこういうアプローチをしていきたいという表現になるかもしれない。どっちになるかは分からないけど。でも、人生ってだいたい普通だから、その真ん中の立場にいる人が多いんじゃないかな。表現と記録の。表現していきたいという変態もいれば、記録していきたい変態もいるけど、私はそこに対しては普通な人だから、普通に関して執着や憧れがある。だってそれって、物事は絶対に変わるし、思うことは絶対あるし、だけどそれって人に示すことじゃないと思う。押し付けるものじゃない。外に出して行くって作業はあるし、表現はしていきたいし。自ずとしてしまうし、記録も自ずとしてしまう。ああ、そこかもしれない。記録がなに表現がなにってことじゃなくて、どっちもみんな絶対になにかでしている。instagramでもそうだし、twitterでもそうだし。人によっては良いところだけを掬い取って外に出していく。みんなどっちもやってるんだよ、きっと。いいなって思った瞬間があって、そこにカメラがあったら撮ってしまうじゃん。

ノートに書きながら説明してくれた

──登山家的な言い回しになってしまいますね

あっはは。なんかさ、昔だったらこういう人って、そこに居やすかったんじゃなかろうか。それこそカテゴライズして落ち着きたいって気持ちがあるんだろうね。みんなが型に嵌りたいって思うんだけど、私はすごい真面目で表現をやるってなると、表現にいこうとそれしかできなくなっちゃう。記録をやろうと思ったら記録しかできなくなっちゃう。なにかをやるって決めちゃうと、できなくなっちゃう。撮りに行こうってなると写真が撮れなくなっちゃうもんでさ。撮りに行こうって意気込んだ写真は撮れるけど、なんだろうな。何かがそこにあったという事実を写し取るってことが、できてない、実は。写真って矛盾で成り立っているからさ、そこを説明するのってすごい難しいよね。それって当たり前のことだよね。自分からアタックすると実らないってことってけっこうあることだから。でもおこがましい話なんだよね、こーんなに大きい世界があってさ、自分がを何かをしようって思った時、自分がこう見たいってものが通用するわけがないじゃん。そんなの自分の暗示だからさ。それは世界を大きく見ようって思うからそういう暗示が必要になるのかもしれないね。私もそうだったけど、身の回りのことから丁寧に見つめてみればそんな暗示はいらないってことに気がつくし、写真を続けていくことが当たり前になる。うんちと一緒。食べたら出す。見たら出す。見たら撮る。

 

5.村田絵梨子の恐怖の根源

村田
学生時代ってあーでもない、こーでもないって考えてたんだけど、写真が続いているしがらみみたいなもの、学校に強制されてたしがらみみたいなものが無くなってから、邪魔するものがなくなったから、なんで自分がこうなのかってことが、分かんなくなっちゃった。こうこうこういう理由だから、こうというのが無くなった。紐なしバンジーと一緒で、理由がないことが理由っていうのもそれはそれで、いいよねー。とかさ。愛。愛おしいとか。いいなって思う気持ち。プラスの感情を思うことしかないわけよ。写真に対して思うことが。それをなんと言うかといわれると難しい。どうして好きな人の顔が好きなのかと言われると、うーん、わかんないなぁ。となるのと同じで、説明しょうと思えばできるんだけど、うまい言葉が見つからないなって。これはどういうことか。

 

──恐怖の根源ってなんですか?

終わること。終わりを見据えてしまうと、なんでも最悪のことを考えてしまう。あと変わること。変化は楽しいけど、変わることがすごく怖い。好きだなっておもっていっぱいいってた喫茶店が「あれ?なんか違くなっちゃった」ってことがけっこう怖い。また好きじゃないものが増えた。好きでも嫌いでもないものが増えるのは嫌かも。どうでもよいものが増えるのが怖い。考えられなくなることかな。恐怖。すごいつまんないんだよね、私。幼稚園で教わったことが一番大事ってところがあるからさ。性格も子供っぽいし。なんだろうね。この面白さって伝わるのかな。私が生きてることって楽しいと思うんだけど、同時に嫌だって気持ちもあるんだけど。ずっとこうしていたいなという気持ちと同じぐらい、別の場所に行きたいなって気持ちもあるし。不安心かもしれない。不安な気持ちはすごく怖いし、それですべてダメになる。疲れること。すごいわかりやすいと思うのね、不安な気持ちとか終わることってボンヤリしてるけど、誰しもみんな嫌なことが嫌だと思うんだよ私。普通に人間らしく生きていると思うんだよ私は。なんかやっぱりさ、なにかになろうとしたり憧れたりするじゃん。そうではなく、動物的に人間的に生きて行くと、怖いのって死んだりとか当たり前っちゃ当たり前。みんなけっこう大丈夫なふりをしたりとか、かっこよく見せたりするのが流行っているというか、そうであるべきみたいな風になってるけど。いろんな気持ちを明らかにしていくというか、さらけ出して行くと結局はみんな楽しいことと気持ちいいことが好きだし、死ぬことも怖いし、有限であること。(ここで、うって変わって声質が変わり)怖いってことはないわ! ないない。写真があるから怖いってことはない。だけど、嫌って思うことは何かが終わったりすること。まとめる。写真があるから怖いことはない。けれど、何かが終わったり変わったりすることに対しては人より思うことはたくさんあるし、写真にそれを残そうとは思わないけど、いずれそれが残って行くんだなという気持ちで写真が自分の中にあったりする。

──どうなったら写真を撮らなくなる?

世界が真っ白になって身体が動かなくなったらかな。腕が動かなくなったら。

 

──この世に写真がなかったら何をしている?

なにしてんだろう。文章書いてるかも。今ここから写真がなくなったら文章を書くかもしれない。この世に写真がなかったらということが想像できないな、写真を作るかもしれない。どうにかこの綺麗なお花とか日差しとかを、残せないかなぁ~。この気持ちはそのまま残すことができないかなぁ。文章だと消えるし、絵だと描けないし練習しないと上手に描けないし。あ、なんか、そういうの作ってみようかしらって、なったらいいな。でも普通に働くと思う。普通に働きたい。普通になりたい。オフィスレディーはなれないって分かってるからなりたい。音楽やってるかもしれない。

 

──そもそも展示についてどのようなイメージを持っているか

なんかよく分からないものというのがあるし、苦手。立体構成が扱うのが苦手だから写真をやっているのに写真の展示を見に行くのもけっこう苦手だし、展示に関してはもっと苦手な意識が強い。よく分からないものだという。あんまり展示というものに関わったことがない。だけど、いったいあれはなんでやるんだろう?やりたいからやるって気持ちはあるだろうけど、なんだろう。、展示をやるってなるのは苦手要素から逃げてきた私には難しい。展示をやるのは時間的なタイミング。何か意味を見出して写真に区切りをつけたりすることがまったくできなくて。写真=生活と一緒だから、明日から違うシリーズで生活しようとか違うシリーズで写真やろうってまったくできなくて。何で区切るかなっていったら。時間?期間?とかたまにあったビッグイベント。失恋とか引越しとかバイト先が変わったとか。なかなかそういうのって無いし。あるけどね。それに浸ってしまうからそれを区切りにバツンとやっていくのは難しいかな。期間だったり、やらないって言われた展示だったりとかかな、と思う。展示に対するあきらめも、写真に対するあきらめと同じような。そこにあるからやる、タイミングがあったからやる。っていうアレしかないな。あきらめだね。やるしかねぇ!という気持ちしかない。私の原動力はそこしかないから。展示はやらなきゃいけないけど、人に見せるために写真をやってるってのはあるけど、そこをガッツリ意識しながらやったりはしないから、改めて人に見せるってことを意識するってなると、シャイじゃないけど恥ずかしいから、難しい。うん。恥ずかしいということだろう。スタンス的にはだいたい変わらないことは変わらない。

──今回の展示に挑む意気込み

意気込みねぇ。意気込みってなんだ。なんだろうなぁ。このコップになにを注ごうかって話をすると「あ、これっていつも冷蔵庫にあったけど、コップに注いで飲んだら美味しいんじゃん!」っていうことをやりたい。パッケージすごい普通だけど、出して見たらすごい綺麗な色だし飲んで見たらすごい美味しいじゃん。すごくもないし、甘すぎず、苦すぎず。ほどよい旨味があるなっていうのを。なんかめっちゃうまいじゃん。ということをやりたいかな。

 

──写真ってアウトプットとインプットが「クラインの壺」みたいに境界線がよくわからないみたいなところがあるじゃないですか。だからアウトプットっていうざっくりした表現をすると、展示以外のアウトプットだと本を作っていらっしゃいますが、それとの違い。考え方のずれがあったら教えていただきたいです。

本は座って手を動かす。本はめくる。展示は持ち歩けないし、身体を使ってその場所に足を運ばなきゃいけないっていうことが一番違うなって思うし、インドアだから、展示に足に運ぶことは非常にめんど臭い。でも、改めて氷を何個か入れた綺麗なコップに注いでいく。遊ぶ。足を運ぶっていうのは器を作ることで、そこに写真があってそれが自分で見てみる。身体使うか頭使うかみたいなところしかない。違いは。もうそこはなにを思うか、なにがあるかとかは、その人のタイミングだし、その日の天気だし。その時私が言ったことだと思うし、大した違いはない。けれど身体を使うことと頭を使うことはだいぶ違うんじゃないかな。それは私が思うことではなく、相手が写真の展示を見たり、本を見たりしてどういう違いがあるかってのは見る人が決めます。モチベーションとして変わるもの、私の中では身体を使うか頭を使うかという違いしかない、と思う。けれど、なんでもかんでも、やる人がやり方を提示するって思いがちだけど、そんなことはないんじゃないかなと思います。見る人がその人なりのやり方で、ゲームをすればいい。任天堂が好きなら任天堂で操作すればいいし。PSPが好きだったら、PSPでプレイすればいい。同じソフトが出ているならね。好きなコントローラー、好きな身体を使って展示を見ればいい。見ることに対してとらなきゃいけないスタンスはたくさんあるけれど、やる上で今私に揺らぐものはないから、あまり差はない。展示と写真に関して。

 

──なぜ沖縄で最初の個展をやろうと思ったの?

友達が沖縄でギャラリーをやっていて、友達がたくさん住んでいて、場所があったから。東京でもやってもよかったけど、友達がいるから、かな。……ちょっと休憩!

 

──そうですね。休憩しましょう。

だからやっぱり展示をするってなってさ、何かをちゃっと考えたり、意味をつけたりしなきゃなって思ったりもするけど、そういうのってまったく向いてないし、まったく意味がないし。私はきっかけを提供する側で、一番大変なのは見る人だと思う。そこから何を感じ取れるかって、私が決めることでは無いし、決められることでもない。その、伝わらなさ、分からなさみたいのが、すごい怖いし、だからこそ伝わったら面白いなってのはあるな。

個展情報

かゆくてもかいちゃだめ
期間  2018/3/24–2018/4/1
場所  BARRAK 1 (沖縄県那覇市大道35)

 

プロフィール

村田絵梨子
1994年生まれ。写真家・植本一子のベビーシッターを務めていた。2014年「intentions」で写真家デビュー。写真集「愛のしらべ」を刊行ののち、エッセイ集「そこにいて」を自費出版。4刷を経てそのすべてが完売。2018年には初の個展を開催。
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Writing: 立花桃子
Photo: 石田祐規